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「専用フォント」で電子書籍に“いまさら”参入する星海社の狙い
2020年7月9日 08:30
いまや、電子書籍は珍しくない。出版社にとって大きな収益源。10年で出版界も様変わりしたものだ。
そんな中でも、これまで頑なに電子書籍を出してこなかった出版社がある。
それが「星海社」だ。
奈須きのこ氏や竜騎士07氏と言ったエンターテインメント性の高い作家陣の作品を得意とし、コンテンツ的には電子書籍と相性がいい。
しかも、同社は講談社の100%子会社。講談社はiPadが出てKindleが上陸前の2010年頃から、野間省伸社長のトップダウン戦略で全社的に電子書籍ビジネスを推進した。ならば電子書籍を最初から……やっていそうに見えて、その実真逆。親会社(しかも日本三大出版社)の方針に「ノー」と言い続けてきたのが星海社だ。2017年にコミックについては電子書籍化を始めたものの、文字もの・小説についてはやってこなかった。
その方針が、星海社が創立10周年を迎える7月7日、変わることが発表された。
それだけなら、「頑なな小さな出版社が方針を変えた」だけのニュースに過ぎない。
だが、星海社が電子書籍化をするということは、単に「始めた」だけではない。始めなかったことには相応のこだわりがあり、始めるからには「こだわりを満足させる」ものを作った、ということでもある。
では、そのこだわりとはなんだったのだろうか? どう解決したのだろうか? そこを知ることは、今の電子書籍の1つの形を知ることにもなるだろう。
星海社社長の太田克史氏と、同社・執行役員 プロダクトマネジャーの紺野慎一氏に聞いた。なお、本取材はすべてオンラインで行なわれている。
小説・ノンフィクションのために「オリジナルかなフォント」を開発
インタビューに入る前に、星海社が出す文字ものの電子書籍がどうなるのか見ていただこう。
以下の画像は、星海社がAmazonのKindleを通じて発売する『ひぐらしのなく頃に解・第二話 罪滅し編(上)』の表示だ。
さらに、ノンフィクションの新書である『武器としての決断思考』もご覧いただこう。
どちらも、画像をクリックして全画面拡大で見ていただくことをお勧めする。パッと見ると、それぞれ2つ文面が並んでいる理由がわかりにくいかもしれない。そこで各文字、特に「かな」「かぎかっこ」に注目していただきたい。字形(フォント)が違うのがわかってくる。
左が星海社の「フミテ」、右が通常のフォントでの表示。「く」や「つ」、「わ」の入りなどが違い、フミテの方が柔らかい印象だ
左が星海社の「なぎ」、右が通常のフォントでの表示。かぎかっこの形や「の」の字形がより硬質な印象を与える
これらのかなフォントはそれぞれ、「小説」「ノンフィクション」により合ったフォントを、ということで、星海社が独自に作ったもの。小説用かなフォントの名は「フミテ(筆)」、ノンフィクション用かなフォントの名は「なぎ(凪)」と名付けられた。
「フミテ」は柔らかめで空間をしっかり生かした印象が強く、「なぎ」はスッキリとみやすい印象が強い。これが書籍に埋め込まれるため、誰もが星海社が指定したフォントで書籍を読むことになる。
左がiOSでの、右がAndroidでのアプリ上の変更画面。同じフォントを使うことになるので、プラットフォームが変わっても表示は同じになる
なお、専用フォントは、KindleのiOSとAndroidアプリでの読書時に利用できる。それ以外の環境では、専用フォントでの正しい表示は保証されないという(通常フォントでの閲覧には問題なし)。
フォントのデザインをしたのは字游工房。同社書体設計士の鳥海修氏が開発を担当している。字游工房は「ヒラギノ」や「游明朝」、「游ゴシック体」をデザインしたところであり、鳥海氏はヒラギノのデザイナーの一人でもある。macOSからiOSまでのアップル製品、マイクロソフトのWindowsに搭載され、各種看板などにもヒラギノ由来のフォントが広く使われていることを思えば、「鳥海氏が、電子書籍専用にかなフォントをデザインした」ことの凄さがわかっていただけるのではないか、と思う。
これらのことでお分かりのように、要は、紙版が備えているレイアウトなどを可能な限り再現すること、そして、「自社の小説とノンフィクションに対し、それぞれオリジナルのフォントを使うこと」が、星海社の電子書籍の特徴だ。
同社はこうした形の電子書籍データを、自社および協力会社とともにデータ化し、電子書籍ストアに納品する。現状では、販売元はAmazonの「Kindle」のみ。しかしずっと売り場を限定にする意図はなく、ある程度時間が経って準備が整い次第、他の電子書籍ストアでも展開を検討しているという。
広がる「電子書籍」の中で「他と違うこと」をするには
そもそも、なぜ星海社は電子書籍をこれまで出さなかったのか? そして今回、わざわざかなフォントを作ってまで参入することになったのだろうか? 太田氏は次のように説明する。
太田氏(以下敬称略):これはカッコつけていう訳ではないのですが、「同じことはしたくなかった」からです。
電子書籍には、本来あらゆる可能性があったと思います。もっと「本とは呼べないようなもの」を議論していた時期もありましたよね。でも、今はそういう方向性ではなく、とにかく「本として読めるもの」を素早く提供するのが基本理念になっています。
それは大きな努力を伴うことで、重要です。
ただ、講談社のような大きな会社ですら、初期の数年は需要を満たすためだけで精一杯でした。まずは読者に本を届けること。それで一生懸命だった10年間だと思っています。
その間に過去のトライは風化し、各電子書籍ストアで同じフォーマットの電子書籍が販売されるようになっています。
そこに、自分たちがそのまま乗っかるのは「違う」と思うんです。ちっちゃい出版社だからこそあるべきこだわりですよ。「自分だったらこうする」というものがないなら、講談社の中でやればいいんですから。なんのために星海社を作ったのかを考えると、電子書籍については色々思いあぐねていたのは事実です。
「やりたくない訳ではないのだけれど、僕たち星海社らしい電子書籍をやるためにはどうすべきかを考えていた」と太田氏はいう。一方で、初期には「ビジネス上、電子書籍が必須である」と考えていなかったのも事実のようだ。そこで急いで調査と立案を……という市場規模ではなかったからだ。
太田:2010年から数年間は、特に「文字もの」の電子書籍はなかなか伸びないだろう……と予想していました。日本の書籍市場の大半がコミックであること、そして、低価格な紙の書籍として「文庫」があったからです。読みはぴたりと当たりました。
ところが、3年くらい前から印象が変わりました。ついに電子書籍が「文庫」の市場を越えるのではないか、という手応えを読者としての自分が感じはじめたのです。
5年前には、自分が欲しいと思う文字ものの本を電子書籍で買うことはほとんどありませんでしたが、3年前にはそれが増えてきた。「あれっ?!」と自分でも思ったんです。
いずれは来ると思っていた変化の時がついに近づいてきた。いやもちろん、「そう思うのが遅い」と言う方がいるとは思いますよ。でも、初期には岩盤のように硬いと思っていた市場が変わるな、という確証が生まれた以上、この感覚には従わざるを得ないです。読者としての自分はなによりの指針ですから。
星海社はすでに「文庫」の新刊ラインナップを無くした。書店でビジネスをするなら、文庫という形態ではない、という判断からだ。そして、文庫の市場を代替するものとして、電子書籍を出すべく準備がすすめられていく。
源流は『ファウスト』
ではその中で、「ほかと違う電子書籍を作る」上で、今回のような方向性が採られたのはなぜなのだろうか?
「もう、いつごろそう思い始めたかは覚えていない」と太田氏はいう。だがその原点は、明確に雑誌『ファウスト』にあった。
『ファウスト』は2003年9月から2011年9月まで、講談社から刊行された文芸誌。太田氏はその編集長であり、「ひとり編集部」でもあった。コンピュータで文字データをただ流し込むのではなく、作品ごとにフォントを変え、内容と表示を一体化する試みがなされた。
この時、「フォントディレクター」として協力していたのが紺野氏(当時は凸版印刷所属)だ。
「作品に応じたフォントを」という思想はここから生まれている。
太田:『ファウスト』では、紺野や、ヒラギノを作った鳥海さんと一緒に仕事ができました。その時に感じたのは、「文字は出版という世界における、いい水やいい空気みたいなものなんだ」ってこと。いい水やいい空気なくして、いい世界はありえません。「そうか、大元は書体だな」と。それが鮮烈に残ってたんです。
数年前、私と紺野、鳥海さんの三人で飲みに行った時、こんな話になりました。
もはや、普通の人が日常に見る文字は、圧倒的にデジタル。ならば、電子媒体ならではの活字の世界はあるんだろうか?
そう問うと、鳥海さんはちょっと黙った後にこう言ったんです。
「あると思う」って。
ならそれを見せてもらうことはできないか、というのが、今回のプロジェクトの発端です。
フォントの開発アドバイザーで命名者としては、それぞれのジャンルの第一人者が就任している。
「なぎ」の命名とアドバイザーは古賀史健氏で、「フミテ」の命名とアドバイザーは京極夏彦氏だ。もちろん、どちらも「名前だけ借りた」のではない。「京極さんからもご協力いただく段階で、今回の星海社の挑戦は『ゆるがせにはできない』と言っていただいた」と太田氏も話す。
そもそも、『ファウスト』が作品ごとにフォントを変えるような拘った誌面作りをしていたのも、太田氏が京極氏の担当編集者であったところから生まれている。
ファンにはよく知られた話だが、京極氏はAdobeのDTPソフト「InDesign」で小説を入稿し、版面を自ら整える。ちなみに、京極氏がInDesiginで入稿するプロセスの構築には、凸版印刷時代の紺野氏が関わっている。
それぞれのフォントの形の違いは、本当にちょっとしたものだ。パッとみただけだと「違いがわからない」という人も少なくないだろう。だが、長く読んだ時の感覚は違う。少なくとも紙しかなかった時代、本はそうした部分にも拘って作られてきたものだ。そうしたこだわりの一部を電子書籍に引き継ごうとしたのが今回の取り組み、と言えるだろう。
検証の問題から「Amazon先行」。門戸を閉ざす意図はない
問題は作り方だ。
星海社の電子書籍も、元となるデータ形式が「EPUB」であることに違いはない。
だが他の電子書籍と異なるのは、レイアウトなどにかなり手を加えることもあること、そして、「独自に星海社が埋め込んだフォント」を使うことだ。
特に課題はフォントの埋め込みだ。EPUBの規格にはある機能なのだが、それを電子書籍ストアが使っているビュワーやシステムが許容しているか否かは別の問題である。実は、最初は「Kindle限定」なのもここに理由がある。
太田:我々出版社の人間は(ビュワーに埋め込まれた)ブラウザーに手を出せません。そこを含めて対応できるのは電子書籍ストアだけです。
ではどこを口説くのか、となると、ビジネス的には「Amazon一択」になります。今現在、電子書籍のコミックはさまざまなストアが群雄割拠していますが、文字ものはKindle一強。経済的に大きくなる可能性を考えても、「対応してもらうのは難しそうだけど、やっぱり最初にAmazonさんに頼んでみよう」ということになったんです。
Amazonは大手だ。だが世界的大手であるだけに、「日本だけの事情」をガンガン取り入れるところでもない。交渉相手としてはなかなか大変なところ……と想像できる話だ。
だが、そこで「奇跡が起きた」(太田氏)。
太田:まず、先方の日本サイドの担当者が元デザイナーの方だったんです。なので、我々のこだわりも通じやすかった。その上で、アメリカ本国に「オリジナルフォントを埋め込んだ電子書籍を出したい」という提案をすることになりました。結構上の方の会議に持ち込んだようです。
結果ですか?
会議は「大爆笑」だったそうですよ。「なんで日本の小さな出版社がわざわざそんなことを考えるのか」って。
ですが「だがクレイジーだからやらせてみよう!」ということで、一発でOKが出ました。
2019年8月30日のことです。
同社の小説には、レイアウトに凝った物も多い。文字や画面の大きさに合わせて文字を流し込む「リフロー」型の電子書籍では、そのすべてを再現するのは難しい部分もある。だが、そうした部分にも、出版社側として手をかけて再現していくという。
紺野:まだ正直、手探りの部分はあります。しかし、社内外のチームで協力してひとつひとつ乗り越えていこうと思います。
それらの方策の中には、その本の「紙版」に関わったオペレータさんが電子書籍化も原則として担当する、というこだわりもあります。私自身がDTPを手がけた作品もありますし。自分が手がけたDTPデータなので、どう作られているかは自分が一番よくわかります。
制作フロー的にユニークな部分として、EPUB制作のプロセスが前工程と後工程の2つに分けられていることが挙げられます。前工程は言わば“素のEPUB”をつくる工程。後工程はオリジナルフォントの埋め込みやアクセシビリティを始めとする、こちらは〝こだわりのEPUB”をつくる工程です。指示や連絡は原則としてSlackを使い、各チャンネル内でやりとりして進めています。
こうした作業は検証が必須であり、コストも人件費もかかる。太田氏は「現状年内は、Kindle向けで手一杯」と話す。だが、門戸を閉ざすつもりはない。
太田:フォントについて、星海社のみで独占するつもりはありません。「このフォントはいい!」と判断していただけるなら、他社さんの本にも門戸を開く可能性は十分にあります。
販売ストアの点も同様です。まずはリソースの問題があるのでAmazonと、という形になりますが、来年は他のいくつかの電子書籍ストアでもそういう試みをできればいい、と思っています。