鈴木淳也のPay Attention

第214回

JR東日本「Suicaアプリ」が変えること ブランド化するSuicaとその未来

世界で最も乗降車数が多く、JR東日本が本社を構える新宿駅

先日、「Suicaアプリ」28年投入 会員ID統合しSuica経済圏拡大」というニュースが飛び込んできたが、現在JR東日本を取り巻く環境について整理しつつ、その狙いや将来像を考察してみたい。

本連載でたびたび触れているが、今回の発表はJR東日本が2018年に発表したグループ経営ビジョン「変革2027」の次を見据えてのものだ。この中長期計画では、日本の人口減少や都市部への人口集中など、現在国が抱えている課題やトレンドの数々を見据え、今後10年間で運賃収入のみならず周辺事業へのテコ入れによる収益の増加につながる施策を実施していこうと策定されている。

一方で、2018年時点では2020年以降に発生するコロナ禍は予想できなかったであろうし、それによって当初の想定以上に人流の変化が激しくなるという事情も想定していなかったはずだ。当初、JR東日本が描いていた周辺事業を取り巻く環境も大きく変化しており、時代の趨勢に合わせてアップデートが必要になった……というのが一連の流れだ。

「Suicaの共通基盤化」というキーワードは「変革2027」の中でもたびたび触れられていた。同ビジョンが策定されたと思われる2017年ごろは、Suicaの発行枚数が6,942万枚、モバイルSuicaの累計委会員数が554万で、JR東日本管轄内の人口をほぼカバーできる水準にあった。現在ではSuica発行枚数は約1.4倍、モバイルSuica会員数は約4倍の水準となっているが、引き続き広く利用されているサービスには変わりない。

一方で、Suicaを巡る周辺事情はここ7年ほどで大きく変化したといえる。

Suicaを共通基盤としてJR東日本が2017年ごろに描いていた成長戦略図(出典:JR東日本)

大きなポイントは、用途に応じてSuicaを代替可能な手段が多数登場したことにある。

1つは小額決済の分野で、もともと“電子マネー”という括りでFeliCaベースの競合サービスはあったものの、この期間にPayPayをはじめとするコード決済が普及し、一定の市民権を得るに至った。それまで小額決済ではあまり利用されるケースのなかったクレジットカードなどのサービスにおいても、手軽に利用できる非接触の“タッチ決済”の広がりとともに小額決済の場面で利用されることが増えている。

これにより、従来「エキナカ」を主戦場としていたJR東日本がその領域拡大に向けて「マチナカ」の開拓に勤しんでいたところ、そのブレーキ役として機能しつつある。

実際、Suicaを含む電子マネーの利用金額や件数は、日本銀行の資料を参照する限り、携帯電話利用を含む発行枚数の伸びと比較しても低水準に留まっており、現状で頭打ちの傾向がみられる。金額ベースではすでにコード決済が電子マネーを2倍近く上回っており、おそらくは2017年時点でJR東日本が想定していなかった状況にある。

キャッシュレス決済の利用金額推移。経済産業省の資料より抜粋

もう1つは、JR東日本がコア事業としていた輸送分野での代替手段の登場だ。もともとSuicaの特性としてエリア移動に特化していたという事情があり、苦手としていた長距離移動のカバー、そして付加的な旅行商品である“企画券”の提供をモバイル端末経由で行なおうとしていた。

当時は鉄道そのものがカバーする営業エリアのみならず、より細かいドアツードアを含めた移動全体をカバーする仕組みとして「MaaS(Mobility as a Service)」というアイデアに注目が集まっていた。その結果として「モビリティ・リンケージ・プラットフォーム」という戦略を考え出した。

移動全体をモバイルアプリでカバーしつつ、鉄道やバスの乗降、さらにタクシーを含むラストワンマイルの移動手段についてはSuicaで決済をしてもらおうというもの(もちろんアプリ内に登録したクレジットカードの利用もある)。

その中核にあるのが“Suicaという物理媒体”の位置付けだったとみられるが、昨今の報道にみられるように地方のバス路線を中心に交通系ICカードから撤退する事業者が出現し、さらに最近では主要都市部を含む鉄道会社の多くが「オープンループ」と呼ばれるクレジットカードやデビットカードの非接触決済を用いた“タッチ乗車”の仕組みを取り入れつつある。

今年6月17日にはQRコードでの乗車が可能な「スルッとQRtto」のサービスが関西私鉄の間で始まっており、ルートしだいでは交通系ICが不要という状況も生まれている。

つまり、Suicaのような交通系ICカードは「必ずしも移動の中心ではない」という変化が7年間で起きている。

「モビリティ・リンケージ・プラットフォーム」に関する説明図(出典:JR東日本)

“ブランド”化する「Suica」

「Suica」というコアサービスさえ持っていれば比較的が問題なかった当時と比べ、移動や決済手段の多様化した現在では逆にSuicaの“弱点”と呼ぶべき部分がネックとなり、苦戦を強いられる場面が目立つようになった。

例えば決済でみれば、チャージ上限が2万円でこれが決済金額の上限となること、チャージバックにおける制限もあり、加えて不正利用を防止するセキュリティ機能と呼べるのは定期更新されるネガ情報のみ(無効化されたカードのリスト情報)。競合となるクレジットカードやコード決済の要領で使うのは難しい。

また、スーパーマーケットなどのキャッシュレス決済の手数料が利益率に直結する業態の場合、手数料の設定でクレジットカードやコード決済に比べて不利で、対応決済手段から外されてしまうというケースが少なからず存在する。

そして移動面では、クレジットカードやQRコードを使った乗車の登場のみならず、近い将来には「企画乗車券」のようなものが日本国内で注目を集めると見られる。

もともと「1日周遊券」や「青春18きっぷ」のようなものがあるが、事前にチケットを購入して、決められた範囲で自由に移動できたり、周辺施設を無料または割引で楽しんだりといったことが可能なものだ。

欧州などでは比較的メジャーな旅行商品であり、イベント事があると周遊券と会場への入場券をセットにした割引チケットを販売したり、あるいは前売りで早めに特急を予約購入すると大幅にディスカウントが行なわるといった特典がある。

現状でも国内では磁気切符などで提供されたりするものだが、SuicaまたはモバイルSuicaのような交通系ICカードで利用可能なケースは限られている。ゆえに、JR東日本では「えきねっと」のサービスでアプリ上から「QRコード乗車券」を発行することを計画しており、これが実質的な「企画乗車券」におけるSuicaの代替として機能する。

つまり、“Suicaという物理媒体”でカバーしきれないニーズが拡大する現状があり、それを補完する仕組みをJR東日本は次々と用意しており、先日の発表につながるという流れだ。

筆者の印象であるが、それまでのJR東日本はSuicaを除くデジタルサービスを統一的な思想なくその場の状況に応じてリリースを続けており、全体的なシナジーをあまり重視してこなかった。

一方で、デジタル分野のサービスでは競合が「ID」を武器にしたエコシステムによる囲い込みを模索しつつあり、JR東日本が本来持つ強みを活かすことなく各個撃破されてきた印象がある。

統一的なIDの下に事業を再編するというのはその反省からきたもので、“Suicaアプリ”から統一IDで紐付けられた各サービスを利用できるようにするというのが当面の目標となる。同時に、ここでいう“Suicaアプリ”はすでに“Suicaという物理媒体”を直接指すものではなく、どちらかといえば「JR東日本が提供するデジタルサービス全体を指すもの」という位置付けとなり、意味合いとしては“Suicaというブランド”で象徴的な存在へと変化していると考えられる。

統一IDの下でSuicaは“ブランド”という象徴的な存在になると思われる

スーパーアプリと茨の道

とはいえ、方針の修正が行なわれても依然としてまだ道のりは長いというのが実際だ。以前に「SuicaのID化」という記事を書いて「先走り過ぎ」とたしなめられたが、“Suica”を中核にサービスを構成するために、SuicaのID化は避けられない。

現在はローカルでの処理を前提として残高(バリュー)をカード上に持たせているSuicaだが、より柔軟な支払い方法や企画乗車券を絡めた付加サービスを提供するためには、処理の仕組みをセンターサーバー方式に移行し、Suicaの仕組みをクレジットカードやデビットカードに近いものにする必要があるだろう。物販などの決済においても、オンラインでオーソリが走ることでセキュリティの強化が可能になるため、より高額な決済にも応用できる。

決済という意味では、1993年に発行を開始した「VIEWカード」がある。もともとJR東日本のクレジットカード事業としてスタートしたものだが、2010年には完全子会社のビューカードを設立し、全事業をそちらに移管している。理由として「業績の不振」が挙げられているが、実際のところVIEWカード単体では維持が難しいという事情があった。

ある情報源によれば、エキナカに入居するテナントを中心にVIEWカードのみ通常よりも高い手数料に設定して取り扱いするよう要請する施策などを行なっており、こうしたJR東日本本体からのバックアップを含めてカード事業を成り立たせていたという背景があるようだ。一方で、「VIEW ALTTE」のような窓口となるATM端末が駅の要所要所に配置されることもあり、地の利を活かしたサービスが提供できる下地が存在していた。

楽天銀行のBaaS(Bank as a Service)の仕組みを活用した「JRE BANK」が5月9日にスタートしているが、支店を持たないネット銀行が、エキナカという主要な土地を持っている事業者と結びつくことで、より顧客と接点を持つことが可能になる。JRE BANKをビューカードの事業とすることで、既存設備を上手く活用しようという考えだ。

Suicaをデジタルサービスの中核とする

金融サービスという視点でみて、“銀行を持つ”ことは非常に重要な意味を持つ。お金を預け、そこから各種の金融サービスを利用するうえで銀行口座はその基点になるからだ。まず給与振込口座になれば、毎月必ず口座に一定額の預金がやってくるようになる。住宅ローンや各種の支払いを行なうようになると、仮に給与振込口座ではなかったとしても、引き落としのために一定額が口座には残ることになるだろう。

以前にKDDIが金融サービス強化の一環として最大35年の住宅ローンを絡めた割引サービスを開始して話題となったが、このように末永くユーザーを“縛る”サービスを複数組み合わせ、なるべく自社の経済圏に囲い込むというのが異業種から金融に参入したライバルらの常套手段となっている。正直、商品ラインをJR東日本がどこまで用意するかは不明だが、同じような戦略で囲い込みを目指していくと思われる。

囲い込みという意味では、それまでエキナカの商業施設ごとにバラバラに存在していたポイントプログラムを統合して2016年に誕生した「JRE POINT」も鍵の1つとなる。

後にSuicaと連携して「Suica決済するだけでポイントが貯まる」という仕組みも打ち出したが、これも課題にぶつかっている。

ある情報源によれば、各種施策でポイントそのものは蓄積されるようになったものの、JR東日本が期待する経済圏への環流がいまひとつ行なわれていない問題があるという。本来であれば、同社の鉄道サービスや周辺施設の利用にもっとポイントを活用してほしいと考えているようだが、ポイントプログラムの魅力を高めるためにステージ制を導入したほか、独自のコード決済を導入してポイントを周辺施設で使えるよう検討しているなど、いまだ施行錯誤の段階にある。

同様の悩みは他社のポイントプログラムを導入したケースでも聞いており、「共通ポイントによるエコシステム」の確立がそれほど容易でないことを示す事例にもなっている。

再開発の途上にある新宿駅前広場とルミネエスト

まとめると、JR東日本は“Suica”というブランドを冠したアプリを提供し、これらサービスを利用するための窓口として活用しようとしている。一部では「スーパーアプリ」のような表現がみられたが、ことSuicaアプリに関しては個々のサービスが連携も含めてまだまだ弱く、これまでバラバラに提供されていたアプリやサービスがようやく整理され、使い勝手が向上し、ようやくスタート地点に立ったという段階にある。

JRE POINTを介したデータマーケティング的なものもうたわれているが、既存のSuicaも含めて商圏が基本的にエキナカに限定されるという弱点もあり、この点が他の共通ポイントやクレジットカードなどのサービスと比較した際にネックとなる。いずれにせよ、“Suicaアプリ”が一定の存在感を示すのにはまだまだ時間がかかるだろう。

SuicaとIDと少し未来の話

最後に少し、Suicaを取り巻く最新の話題に触れたい。熊本市内周辺をカバーする5つの鉄道・バス事業者が、早ければ2025年から全国共通交通系ICカード(10カード)の取り扱いを止め、クレジットカードの“タッチ乗車”に対応したオープンループの採用に動くとして話題となった。

理由は10カードの機材更新にかかる費用負担が重く、これら中小規模事業者の体力では賄えないというもの。料金徴収の機器はサーバーも含めて更新タイミングが定期的にやってくるほか、カードの規格策定からデータ更新にまつわる情報を管理する日本鉄道サイバネティクス協議会への会費支払いもあり、費用負担が重いということが知られている。沖縄のゆいレールが長らく10カードに対応しなかった理由の1つに、こうした対応による追加負担を避けることがあった。

同様の問題を抱えている事業者は全国に複数おり、少なからず後追い現象が発生するのは間違いないだろう。

一方で、鹿児島市電などのように、そもそも10カードを導入せずに一足飛びでオープンループを採用するケースもあるため、地方交通を中心に「地域外の訪問者はクレジットカードまたはデビットカードを所持していれば乗れる」という状況が生まれると思われる。

詳細は今後レポートするが、都市部では私鉄を中心にオープンループを全面採用する機運が高まっており、実際に水面下で進んでいるプロジェクトを鑑みると「クレジットカードだけで移動可能」という範囲は飛躍的に広がっている。ネックとなるのはJR東日本をはじめとする一部のJRグループだが、前述のように“タッチ乗車”はできなくとも、アプリを介したQRコード切符の事前購入による乗車は可能なので、交通系ICカードがなくても移動できるようになるという未来は割と近いのかもしれない。

熊本市内を走る九州産交バス
藤崎宮前駅に停車する熊本電鉄藤崎線

さて、この項のメインディッシュだが、同社が先日発表した「Beyond the Border」で語るSuicaアプリの未来構想の中に、下図のような説明が行なわれていた点だ。赤枠の部分に注目で、「顔認証データ等と連携した、ハンズフリーのタッチレス改札ご提供」とある。顔認証改札といえば、2021年から実証実験を行なっていたユーカリが丘線と路線バスが商用サービスとして知られているが、この仕組みの実現には「顔認証を事前にサーバーに登録」する必要がある。

「SuicaのID化」というキーワードとも関連するが、IDの実体はJR東日本がサーバーで管理し、それを呼び出すためのトリガーが“Suicaという物理媒体”であり、この場合は“顔情報”というわけだ。赤枠以外の部分にも注目するといろいろ書いてあるが、JR東日本では何らかの“認証手段”を用いて利用者を追跡し、その行動に紐付いたサービスを提供していきたいと考えていることが分かる。つまり、JR東日本にとっても将来的に“Suicaという物理媒体”はサービス提供のためのツールの一部でしかなく、本命は自身がサーバー上で管理する“ID”ということになる。

資料中にある「ハンズフリーのタッチレス改札」とは
大阪メトロが導入を進めている顔認証改札

“ID”と“認証”というキーワードが出てきたところで、今度は「ハンズフリーのタッチレス改札」という部分に注目したい。前述のように、鍵となるのは“ID”と“認証”なので、この部分は別に「改札」である必要はない。通常の決済にも応用が可能だ。つまり、JR東日本がそう望むのであれば、このような形で蓄えた“ID”情報を“マチナカ”に持ち出して、「顔認証決済」のような仕組みを提案することも可能かもしれない。“ID”に戦略の比重を移したということは、そうした布石にもなり得ることを意味する。

ここからが重要なのだが、先日、ソニーでFeliCa関連事業ならびにNFC Forumの取りまとめを行なっている人物と話す機会があり、同社の方針として最近ではNFCよりもむしろUWB(Ultra Wide Band)に力を入れているという話を聞いた。UWBはBLE(Bluetooth Low Energy)などの技術と比べて正確な位置測定が可能な技術であり、これを用いて(リレーアタックなどの問題で関係者を悩ませている)車のエントリーキーに応用できないかという形で研究開発が進んでいたという。

同時に、UWBをセキュアエレメント(SE)に直結させることで、従来までNFCで実現していた「認証情報を格納したSE内のアプレットをUWBを介して通信させる」ことが可能になる。これまではスマートフォンを直接リーダー端末に近付けないと行なえなかった仕組みが、端末をポケットに入れたまま“ハンズフリー”で利用できるようになる。つまり、スマートフォンを使った“ハンズフリー”決済がUWB+SEで実現できるというわけだ。この仕様はFiRa Consortiumで標準化が進められており、当該の人物のその作業に関わっているという。

先日は「『タッチしないタッチ決済』実現へ りそなやJCBがBLE+UWBの新決済体験」という発表もあったが、実際に決済に近い場面からのアプローチが行なわれていることが分かる。また、FeliCaの携帯電話への実装で大きな役割を果たしているFeliCa Networksもまたこれら取り組みに関わっていると聞く。非常に面白い動きだと思われる。

ここでJR東日本の話に戻すと、アイデア的にはUWB+SEのハンズフリー決済は改札にも応用が可能だ。有効範囲や指向性の問題も考えてまだ課題はあるが、現状でiPhoneを含むスマートフォンの多くにUWBが搭載されつつあり、近い将来に標準搭載機能のみで実現可能な仕組みでもあるため、以前にJR東日本が打ち出していた「ミリ波を活用したタッチレスゲート」よりは実現可能性が高いように思える。

FeliCa関連サービスの縮小が噂されるなか、新しい潮流が“ID”と“認証”という概念を通じて生まれつつあるのかもしれない。

「タッチ&ゴー」のキャッチフレーズで登場したSuicaペンギンだが、次の活躍はどうなるのか

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)