小寺信良のシティ・カントリー・シティ

第28回

発行されなかった広報誌。保護者と学校の関わり方が問われた1年

令和2年度はPTA活動もままならない年であった

紆余曲折あった令和2年度も、この3月で終わる。官公庁や会社なども期末のところは多いだろうが、子供たちも卒業、進学によって出会いと別れの季節である。

今にして思えば、昨年4月7日から首都圏を含む緊急事態宣言が発令、16日から全国へ対象が拡大された。大都市圏に限らず地方市町村に至るまで、休校となった。例年であれば、4月末から5月ゴールデンウィークにかけて、PTAの役員・委員の入れ替えがある時期である。だが学校が活動停止ゆえにPTAも活動停止となり、筆者の子供たちが通う中学校の役員・委員改正が行なわれたのは7月下旬であった。

筆者は埼玉在住時代からPTAで長年広報委員長を勤めてきた関係で、本校でも広報委員長を引き受けることとなった。本来なら、8月中旬に第1号、12月中旬に第2号、3月中旬に第3号、4月中旬に先生紹介号を出すスケジュールである。

紙の広報誌発行は、委員が集まって原稿と写真を切り貼りしながら誌面を作る作業が発生する。3蜜を避けろと言われている中、額を突き合わせての誌面作成を委員に強要できるのか。

そこで埼玉時代に実用化してきた、PTA広報誌の電子化を本部役員にプレゼンしてみた。電子化すれば、取材者が一人で短い記事をLINEで投稿するだけなので、委員が集まることなく記事制作ができる。

だが、この案は却下された。「学校の後援会やOB会は高齢者が多く、紙でなければ配布できないから」だそうである。そもそもPTAは広報誌は、PTA会員のために作っている。後援団体や地域のお年寄りに「も」広報誌を配るというのは、本来の目的ではなく、あとから発生した付加的な役割にすぎない。手段のために目的が入れ替わるというのは、古い組織体質にありがちである。

広報誌を印刷で作るとなると、7月末に委員編成して8月中旬に第1号を出すのはスケジュール的に無理である。加えて学校行事がないので、載せるネタもない。したがって第1号は、休刊という事になった。

休刊となると、広報委員会の引き継ぎも行なわれない事になる。ビジネスマンには信じられないだろうが、多くの学校では広報誌発行の段取りは、前年度役員からの「口伝」で伝えられるだけだ。出版物の作成は段取りが多く、また学校への取材も制限が多い。こうした多数の段取りは、殆どの学校できちんと文章化されていないのが現実だ。

実際筆者が最初に広報委員を努めたさいたま市の小学校でも中学校でも引き継ぎ資料はなく、毎回数時間かけて口頭で引き継ぎが行なわれていた。これではダメだと言うことで、筆者が委員長のときにきちんと文章化した。今は両校とも広報誌を電子化したのでそのマニュアルも不要になったが、A4で15ページ程度の資料も、手順の文章化ができる人がいなければ作れない。

授業再開以降、学校行事らしいことといえば、9月の体育大会ぐらいだった。10月には合唱コンクールが開催されたが、3年生の保護者以外は出席できないということで、直接取材できなかった。したがって年末の2号は、体育大会と先生が撮影してくれた合唱コンクールの写真で、どうにか発行することができた。ただ自分たちでほとんど取材しておらず、かなりのやっつけ感は残る。

何を残し、何を捨てるのか

子供達の部活動も、大きく制限された。学校での練習はできるが、かなりの大会が中止となり、モチベーションが上がらない。3年生は夏の公式戦で引退するわけだが、スポーツの種類によっては中止となり、不完全燃焼で終わった子供達も多かった。

保護者としても、数少ない公式戦に子供を送り迎えするだけで、観戦できないことも多々あった。当初は体育館競技では1団体につき5名まで、交代で観戦といったスタイルだった。ところが感染拡大第3波を受けて、体育館競技では1団体につき観戦者1人のみ、屋外競技のテニスなども1団体につき観戦者5名まで、交代不可といった厳しい制限で実施されるなど、やりすぎではないかと思うこともあった。

体育館競技では保護者観戦もかなり制限される

そんな中、広報誌第3号の検討がスタートした。例年修学旅行の写真と、卒業生の立志式、そして3年生のクラスごとの思い出という形で構成しているそうだが、今年度は修学旅行も中止となり、立志式も卒業間際まで実施するかわからないという。また学校行事が殆どなかったこともあり、クラスの思い出も集まりそうにない。したがって3号も、発行を断念することとなった。

PTA主催のバザーや清掃活動、秋の文化祭などもすべて中止となっており、令和2年度のPTAはほとんど活動実績がないままで終了することとなった。おそらく新年度の先生紹介号も、委員が学校に入って取材や撮影することはできず、かなりの部分で先生方に作成を依頼することになるだろう。

来年度の引き継ぎも、活動実績が殆どないので、何も知らないのも同然である。一応広報誌制作の手順ぐらいは文章化しようと思っているが、学校行事への参加の段取りがさっぱりわからない。一方子供たちも、ただ勉強だけしていればいいというわけではなく、部活動や保護者も含めた社会奉仕活動などを通じて学ぶことも多い。今年度はそうした学びが、ほとんどゼロであった。

宮崎県では、2月25日以降感染者ゼロの日々が続いている。これを受けて3月末のテニスの大会では、コロナ感染が騒がれて以来初めて、保護者観戦制限なしで実施されることとなった。ただこれは屋外競技だからで、体育館競技ではまだそこまでオープンにはなっていない。

ようやく保護者らしいことができるようになったわけだが、宮崎県で今後、感染者ゼロがずっと続くということはないだろう。1月には独自の緊急事態宣言が出されて、比較的早く収束したのは、他県からの人の出入りが殆どないからである。「陸の孤島」と呼ばれた立地が功を奏しただけのことだ。4月に入れば学生や社会人の移動が始まり、予断を許さなくなる。

令和3年度も、保護者の活動制限は続くだろう。広報誌は発行できず、後援団体や地域のお年寄りに配ることもない。それでも学校が回るのは事実である。PTA活動や広報誌発行も含め、本当に保護者と先生が連携して行なわなければならないことは何なのか。

本来ならば来年度は、そういうことを大鉈を振るって整理していくべきタイミングである。しかしそこに着手するには、かなりのエネルギーが必要になる。一度やめたら復活はなかなか難しいだけに、慎重にならざるを得ない。結局は、「今が特別」という免罪符を以て何も変えない、何もしないという状態を続け、未来の保護者へタスクをどんどん先送りする事になりそうだ。

小寺 信良

テレビ番組、CM、プロモーションビデオのテクニカルディレクターとして10数年のキャリアを持ち、「難しい話を簡単に、簡単な話を難しく」をモットーに、ビデオ・オーディオとコンテンツのフィールドで幅広く執筆を行なう。メールマガジン「小寺・西田のマンデーランチビュッフェ」( http://yakan-hiko.com/kodera.html )も好評配信中。