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東急世田谷線を全線踏破 昭和100年の年に開業100年
2025年4月15日 08:20
2025年は昭和100年にあたる年です。昭和期、日本国内の鉄道は黄金期を迎えましたが、なかでも当時は電気鉄道と呼ばれていた路面電車が各地で運行されていました。市民の足として活躍した路面電車は、マイカーの普及によってその座を奪われていきます。
東京都内では都電が長大な路線網を築き、東急も複数の路面電車を運行していました。東急の路面電車は都電と同様に廃止される運命にありましたが、世田谷線だけが残りました。
世田谷線は三軒茶屋~下高井戸間が1925年に開業しています。つまり、今年は世田谷線の開業100年です。そんな節目の年を迎えた世田谷線の全線を踏破してみました。
関東の駅100選に選ばれている三軒茶屋の赤レンガ調の駅舎
東急電鉄(東急)は渋谷駅を軸に東京・神奈川県に路線を有する大手私鉄です。沿線には渋谷駅のほか、代官山駅・自由が丘駅・中目黒駅・二子玉川駅といった住宅情報誌や不動産サイトなどでの“住みたい街ランキング”で常連の駅名が連なっています。
そんな東急で、異色の路線ともいえるのが世田谷線です。世田谷線は東横線や田園都市線とは異なり、軌道法に準拠して走る路面電車です。
その総延長は約5.0kmと短く、他の路線とも乗り入れをしていません。そのため、世田谷線独自の車両が走っています。
世田谷線は停留所(駅)が全部で10あります。平均して500mごとに停留所が設置されている計算です。停留所間が短いので、2駅ぐらいだったら歩いてしまう人もいることでしょう。
世田谷線の起点になっている三軒茶屋は田園都市線との乗換駅です。そのため、通勤時間帯を過ぎても世田谷線の電車からは多くの人たちが下車してきて、地下にある田園都市線の三軒茶屋駅へと吸い込まれていきます。
地下を走る田園都市線に対して、世田谷線は路面電車にたがわず全線が地上を走っています。三軒茶屋の駅舎は1996年に再開発に伴って赤レンガ調へと改築。再開発で同所には商業・ホール・オフィスで構成される複合ビルが完成しました。同ビルは「キャロットタワー」と名付けられて、三軒茶屋のランドマーク的な存在です。
路面電車の停留所は乗降するだけのホームと簡易な屋根が設置されているケースが多いのですが、三軒茶屋は立派な駅舎が建設されています。そして、赤レンガ調の駅舎は関東の駅100選にも選ばれました。
立派な駅舎を持つ三軒茶屋ですが、ホームは2面1線の構造です。冒頭の写真でわかる通り、電車が入線できる線路が1線しかありませんので、到着した電車はすぐに折り返しの出発をします。そうしなければ次の電車が入線できないのです。
路面電車と聞くと、のどかな沿線風景をイメージしがちですが、世田谷線はデータイムでも6分間隔で運行をしています。隣接した踏切から三軒茶屋のホームを眺めると電車がひっきりなしに出たり入ったりを繰り返していることを実感できます。
電車が自動車の信号待ちをする珍しい風景も
せわしない三軒茶屋から隣の西太子堂を目指します。駅間は約300mなので、歩いてもすぐに着いてしまう距離です。ただし、世田谷線は大半の区間で線路沿いに側道がありません。そのため、今回の全線踏破では事前に想定していた以上に線路から離れて住宅街の中を歩く時間が長くなりました。
ただ、住宅街を歩いている途中でも家と家の間から、世田谷線の電車が走っていく姿を確認できますし、ガタンゴトンという電車の走行音やカンカンカンという踏切の鳴る音が聴こえてくるので、電車の姿が見えなくても路面電車の街であることは感じられます。
西太子堂から次の若林に向けて細い道路を歩き続けると、環状7号線(環七)に行き当たります。環七の脇にあるのが若林の停留所です。
東京屈指の幹線道路でもある環七は、東京23区の外縁部をぐるりと周回しています。自動車の通行量は多いのですが、環七と交わる主要道路の交差点は多くが立体交差化されているので渋滞は近年になって緩和されています。
環七を横切る若林では、世田谷線の電車が自動車の信号待ちをする風景を目にできるのです。環七の通行量を考慮すれば、世田谷線の電車が停車する方が交通の円滑化になるので電車が踏切待ちをしているわけですが、そうした光景は全国でも珍しいので、“若林の踏切”は鉄道名所にもなっているのです。
若林を過ぎると、線路は上り勾配になり再び側道がなくなります。小高い丘を歩いていくと、不思議な雰囲気を醸し出している森が現れました。この森の周囲はフェンスで囲まれて中に立ち入ることはできません。
鬱蒼とした森とフェンスが放っている雰囲気から私有地と錯覚してしまいがちですが、ここは世田谷区立峰松緑地という名前のついた公共空間です。峰松緑地はもともと私有地でしたが、2015年に所有者から世田谷区へと寄贈されました。
同地を寄贈されたことを受け、世田谷区は貴重な緑の資源と捉えて後世へと受け継ぐとともに防災にも活かされる緑地として整備する方針を固めました。それから10年の歳月が経過した今も峰松緑地は閉鎖状態のままで、広く一般開放されているとは言い難い状況です。
歴史ファンが多く訪れる松陰神社
峰松緑地を後にして住宅街を歩いていくと、松陰神社前に到着。一帯はにぎやかな商店街が伸びていますが、商店街を北へと歩いていくと店が途切れたあたりに停留所名にもなっている松陰神社が鎮座しています。
松陰神社は幕末の思想家・吉田松陰を祭神としていますが、吉田松陰は長州藩(現在の山口県)出身のため、山口県萩市にも吉田松陰を祀る松陰神社が建立されています。
吉田松陰は安政の大獄によって刑死しましたが、その死を悼む長州藩士が同地に改葬。そうした経緯から同地に神社が創建されました。松陰神社には地元住民のほかにも歴史ファンなどが多く訪れています。
松陰神社の西隣には若林公園があり、さらに西隣には国士舘大学の校舎群が立ち並んでいます。国士舘大学と交差点を挟んで向かい合うのが世田谷区庁舎です。
世田谷区の旧庁舎は第一庁舎が1960年、第二庁舎が1969年に竣工しました。どちらも設計したのは日本を代表する建築家の前川國男です。前川は国立国会図書館本館をはじめ東京文化会館などの有名建築物を手がけていますが、岡山県庁舎や青森県の弘前市庁舎といった自治体の庁舎も多く設計しました。
現在、世田谷区庁舎は老朽化を理由に建て替え工事が進んでいます。2024年3月に第1期工事が完了し、東棟が5月から供用を開始。建て替え工事によって前川建築は消失しましたが、新装した世田谷区本庁舎東棟には前川の資料を展示するコーナーが設けられ、その歴史を伝えています。
区庁舎から世田谷線の線路へと戻り、さらに線路を越えたところに世田谷ボロ市が開催される世田谷ボロ市通りがあります。ボロ市という名称からガラクタを販売しているようなイメージを抱くかもしれませんが、毎年1月と12月に各2日間ずつ開催される国内最大級のフリーマーケットです。
普段は静かな雰囲気に包まれている通りなので、日常の様子を目の当たりにすると国内最大のフリーマーケットが開催されることは想像しにくいかもしれませんが、ボロ市が開催される日は1日に20万人もの人出でにぎわいます。そのため、開催日は世田谷線がもっとも混雑する日ともいわれます。
宮の坂に展示されている「デハ80形」 深い愛着から訴訟にまで発展
世田谷を過ぎると、世田谷線の車両基地が併設されている上町です。上町はこれまでとは異なってホームがあるだけではなく、2003年に新築された3階建ての立派な駅舎があります。
上町の次が宮の坂です。宮の坂には区民センターが併設されていますが、区民センターとホームの間に元東急の「デハ80形」が静態保存されています。同車両は一般公開されているので、日中は車内に入ることもできます。
デハ80形は東急が新造した車両ですが、前述したように東急は戦後に路面電車を廃止したので、多くのデハ80形が余剰になりました。東急は余剰になったデハ80形を近隣の江ノ島観光(現・江ノ島電鉄)へ譲渡。江ノ電移籍後に600形と改番されて、新天地で活躍しました。江ノ電から引退すると、宮の坂に里帰りしたのです。
使えなくなった車両を保存展示のために引き取った経緯からも、世田谷区民がデハ80形に深い愛着を抱いていたことを窺わせますが、その深い愛着が一悶着を起こす要因にもなります。
宮の坂に隣接する区民センターは1990年に開設されましたが、事前のコンペで宮の坂のホームと線路をまたぐデザイン案が検討されました。そのデザイン案は区民センターからホームにそのまま出入りできる構造でした。それは利用者としては非常に使い勝手がよいものですが、法律的に建設することが難しいこと判明して採用は見送られました。
デハ80形の里帰りに関しても問題が浮上しています。鉄道の線路は、2本のレールを一対として構成されています。このレールとレールの幅を軌間と呼び、JR線の大半は1,067mmを採用しています。
世田谷線は都電と同じ1,372mmを採用しています。デハ80形の移籍先となった江ノ電は1,067mm軌間を採用しています。異なる軌間を走るため、江ノ電への移籍にあたってデハ80形は台車を交換するというミニ改造が施されました。
その後に戻ってくるわけですから、区民から里帰りにあたって1,372mm軌間の台車に再交換されなければならないという指摘が出たのです。
台車を交換する作業には莫大な費用がかかります。現役車両として使用するなら必要経費として受け入れることもできますが、世田谷区は静態保存だけのために余分な費用を捻出できないとの見解を示し、区議会でも費用対効果から台車交換に否定的な報告をしました。
そうした行政の姿勢がもどかしかったようで、世田谷線を強く慕う住民たちは「台車交換をしないで済ませたいために、費用を高く見積もり、議会で偽証をさせた」と提訴したのです。
同訴訟は最高裁まで争われましたが、2014年に原告の主張は却下されます。宮の坂は静かな住宅街ですが、そんな騒がしい話も隠れているのです。
乗換駅でも小田急線は「豪徳寺」、世田谷線は「山下」の理由
宮の坂の近くには招き猫発祥の地とされる名刹の豪徳寺もあります。近年、豪徳寺の招き猫伝説は海外で広まり、静かな住宅街の中にある豪徳寺に東アジア・東南アジアをはじめ世界各国から外国人観光客が押し寄せる名所になりました。
豪徳寺の招き猫伝説にあやかり、小田急の豪徳寺駅には招き猫の石像が安置されています。また、駅前商店街でも招き猫のイラストや看板などを目にします。
豪徳寺付近を歩いていると、外国人の英語や中国語、韓国語だけではなく、フランス語やインドネシア語など多くの言語が周囲から聞こえてきます。日本人にとってそれほどメジャーな観光名所ではない豪徳寺ですが、多くの国・地域から観光客が訪れるようになっているのです。
ただし、豪徳寺を訪れるのは外国人観光客だけではありません。豪徳寺は彦根藩井伊家の菩提寺とされているので、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓が境内にあります。
先ほど触れた松陰神社は、井伊直弼の安政の大獄によって刑死した吉田松陰が祀られています。そうした因縁もあり、松陰神社と豪徳寺をセットにして世田谷線で両者に足を運ぶ歴史ファンは少なくありません。
世田谷線は生活路線としての趣が強く、ゆえに利用者の多くは沿線住民です。世田谷区は人口が約94万人で、現在も微増傾向にあります。そのため、世田谷線も廃線の心配はありません。
それら堅調な需要に加えて、豪徳寺を訪れる観光客による沿線外需要も増加傾向を示しています。こうした沿線外需要が創出されたことによって、世田谷線の収支はより安定化することでしょう。
豪徳寺から世田谷線の線路へと戻りつつ先へ向かうと、小田急線の高架が見えてきます。世田谷線と小田急線の交差部にはそれぞれの停留所と駅が設置されていて、世田谷線は山下、小田急線は豪徳寺と名称は異なっています。
それほどメジャーな名所ではないにしても、豪徳寺は町名にも採用されています。そのまま町名を停留所名にした方がわかりやすく、利便性は高そうです。なぜ、世田谷線の停留所も豪徳寺にしなかったのでしょうか?
その答えは、世田谷線がたどった複雑な歴史にあります。かつて世田谷線にも豪徳寺前という停留所がありました。冒頭でも触れたように、世田谷線は停留所の間隔が短いのですが、以前はもっと多くの停留所があったのです。あまりにも停留所の間隔が短いので、世田谷線は停留所を統廃合しました。その結果、豪徳寺前が山下に統合される形で廃止されたのです。
名称が異なる世田谷線の山下と小田急の豪徳寺駅ですが、どちらも駅前に花壇が設けられています。そして、自治会や商店街の人たちが協力して手入れを担当しています。
わずかな距離ですが、豪徳寺駅と山下は離れています。この距離が両者の乗り換えを面倒と感じさせる要因になっているのですが、その乗り換えが花壇に咲く四季折々の花を愛でる時間と捉えれば、山下と豪徳寺駅が離れていることをポジティブに考えられるかもしれません。
三軒茶屋から山下まで歩いてきました。ここまでは側道が整備されている区間が少なかったのですが、山下から下高井戸までの大半は側道が整備されています。そのため、電車を横目に沿線を歩くことができます。
電車に追い抜かれたり、すれ違ったりしながら松原に到着。閑静な住宅街の雰囲気がある松原を過ぎると、少しずつ街の雰囲気がにぎやかになってきます。長い登り勾配の直線になり、大きなカーブを曲がると終点の下高井戸に到着です。そして下高井戸駅では、京王線との乗り換えができます。
世田谷線はノスタルジックながら鉄道業界をリードする存在
短い世田谷線の全線踏破は、ここで終了です。東急は高度経済成長期にさしかかるまで玉川線・砧線という路面電車の路線を有していました。また、現在は大井町線の一部に転換されていますが、溝ノ口線という路面電車の路線もありました。
そのほか天現寺線・中目黒線という路線も運行していましたが、こちらは1948年に東京都交通局へと譲渡されて都電の一部になっています。
東急が運行していた路面電車の大部分は廃止されましたが、世田谷線は荒川線とともに令和まで生き残り、2つの路面電車はテレビやガイドブックなどで昭和の雰囲気を残した沿線と紹介されます。
路面電車はのんびり走ることからノスタルジーを感じさせますが、世田谷線は2007年に独自のIC乗車券「せたまる」を発行するなど、先進的な取り組みにも積極的です。そのほかにも、2001年にはホームの嵩上げ工事を完了し、車両もバリアフリー化しています。
こうしたハード面だけではなく、運転士・車掌のほかに運賃収受や乗降のサポートをする車内アテンダントを乗務させるなどサービスの充実も怠っていません。東急は運転士・車掌・アテンダント、さらには駅係員も含めサービス介助士の資格の取得を奨励。誰もが利用しやすい公共交通を目指しているのです。
こうした乗客サービスのほかにも、東急は東急パワーサプライという電力会社を設立して2016年から電力の小売業を開始しています。東急パワーサプライは単に電力を販売するというビジネスの観点だけで設立されたのではありません。
同じ東急グループで連携し、2019年からは世田谷線で使用する電力を100%再生可能エネルギーに転換したのです。こうした取り組みにより、世田谷線は国内初のCO2排出量をゼロにした都市型通勤電車になりました。世田谷線は環境面でも、鉄道業界をリードする存在になっているのです。
世田谷線を全線踏破すると、こうした近未来が見えてきます。路面電車が決して時代遅れの乗り物ではないこと、むしろ今の時代に適合している便利な鉄道であることが実感できるのです。