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お茶の歴史を伊藤園の博物館で学ぶ ペットボトルが当たり前になるまで

老若男女を問わずお茶を日常的に飲む人は珍しくありません。コンビニやドラッグストア、自販機では、冷たいお茶・温かいお茶が販売されている光景は当たり前になり、近年では常温のお茶も販売されるようになっています。

お茶の市場が拡大しているかのように思えますが、その一方で緑茶(リーフ茶)の消費量は微減傾向が続いています。お茶の市場動向や文化、流行は昭和から令和にかけて目まぐるしく変動してきたのです。

2024年5月に東京・新橋に開館したお茶の文化創造博物館は、これまで愛飲されてきたお茶の歴史や文化を紹介するミュージアムです。同館の笹目正巳館長に、博物館の目的や意義、お茶の愛され方や楽しみ方の移り変わりなどを伺いました。

博物館の意義について語る笹目正巳館長

汽車土瓶・急須・ペットボトル、お茶の楽しみ方は時代とともに変化

――お茶の文化創造博物館が開館するまでの経緯を教えてください。

笹目:現在、多くの飲料メーカーが缶やペットボトルのお茶を販売しています。お茶は家で湯飲みで飲むのが一般的でしたが、缶やペットボトルで飲むようになっています。

お茶は時代によって飲まれ方が変化し、それに合わせるかのように製造方法や容器も変化しています。そうした容器に着目して考えると、缶やペットボトルといった容器は、現代の消費文化の象徴のように語られます。

しかし、明治期に鉄道が開業して駅のホームで駅弁が販売されるようになると、利用者は一緒にお茶も購入するようになりました。当時、お茶は汽車土瓶と呼ばれる陶製の容器に入れられて販売されており、購入者は付属の湯呑みでお茶を飲んでいました。そして、飲み終わったら汽車土瓶をそのまま窓から捨てられていたんです。危ないので、飲用後は席の下に置いておくよう注意書きがあったほどです。

お茶の文化創造館が開館した旧新橋停車場には、汽車土瓶も展示されています。お茶と鉄道はそうした深い関係にあります。旧新橋停車場に同館をオープンしたのはJR東日本様からお声がけをもらったことがきっかけですが、そうした不思議な縁を感じる場所でした。

汐留から出土した汽車土瓶。同館は汐留駅の跡地に建てられた旧新橋停車場内にあり、鉄道とお茶の不思議な縁を感じさせる

明治期に鉄道が開業する前からも屋外でお茶を飲むことがありました。店先でお茶を売っている茶店もあれば、屋外で楽しむ野店という文化もあります。そうしたお茶を楽しむ場所もさまざまで、飲まれ方もTPOに合わせて多種多様でした。

近年になって、お茶は急須で淹れるものだけではなく、缶・ペットボトルを買って飲むスタイルも加わり、これは単に容器の変化というだけではなく、お茶の味わい方や楽しみ方が時代とともに変化していったことを物語っています。そして時代とともに楽しみ方や容器が変わったように、缶やペットボトルでの茶の飲み方が定着しました。

商品開発時に、メーカーは売上拡大について考えなければなりませんが、そこには味や値段といった部分だけではなく、消費者がどのようなシーンでお茶を飲むのか、どのように楽しんでいるのかを考えています。そうしたお茶の楽しみ方の変遷などを伝えられたらという思いから同館の構想がスタートしました。

ミュージアム内のシアタールームでは映像でお茶文化を学ぶことができる

――現在はお店や自販機でお茶を買うという習慣は根付いています。メーカーとしても、定着までに苦労があったと思います。お茶が普及・拡大していった経緯をどのように受け止めていますか?

笹目:各メーカーの企業努力があったかと思いますが、なによりも大きかったのは、各メーカーは消費者のことを考えながら商品開発を続けてきたことだと思います。それが結果的に時代の波に乗り、コンビニやスーパー、自販機などでも購入していただけるようになって消費者にも受け入れてもらえたんだと思います。

伊藤園は、リーフのお茶を小売店で販売する企業として創業しました。当時はお茶屋さんで量り売りが主流でした。ところが伊藤園が創業した1966年は高度経済成長期にあたり、ちょうどスーパーマーケットが増えてきた時期です。

こうして多くの人たちがスーパーで買い物をするようになりました。当時は専業主婦が多かったので、買い物を楽しむことをコンセプトにしてスーパーでも買いやすくする工夫を考えました。そこで生まれたのが包装茶です。包装茶を店頭に陳列すれば、ほかの買い物と同時に楽しくお茶を購入してもらえると考えたのです。

包装茶は買いやすくする工夫でしたが、ほかにも時間の経過とともに茶葉の品質が劣化することを防ぐ意味もありました。お茶屋の店頭では量り売りで販売されていましたが、これだと時間の経過とともに酸素や光などの影響を受けて品質が劣化してしまいます。茶葉を買い付けるようなプロなら、茶葉の目利きはできますが、一般の消費者にはそれが判別できません。包装茶は、その課題をクリアする意味もあったのです。

その後、コンビニが増えてきます。コンビニでは弁当やおにぎりが主力商品として販売されるようになり普及拡大すると、外で気軽に食事をすることが一般的になっていきます。当時、販売されている飲料の多くは甘い清涼飲料水や炭酸飲料、コーヒーなどでした。また1985年以降は弁当やおにぎりに合う飲料として缶入りの緑茶が普及します。

ちなみに、緑茶よりも先に缶入りになったのはウーロン茶で1980年に缶入りのウーロン茶を伊藤園が開発しています。

これらの背景から、ウーロン茶があるなら緑茶があってもいいよねという流れにつながり、伊藤園で缶入りの緑茶を商品化することになりました。これが好評を得たことで、「消費者が望んでいるなら、どんな形でも緑茶を飲んでもらえる」という自信につながっていきます。そこから、少しずつ緑茶市場へとチャレンジしていきました。それが長い歳月をかけて、社会に認知されるようになったと考えています。

喉を潤すだけではないお茶の役割

――今、すでにスーパーやコンビニ、ドラッグストアのドリンク販売の棚、自販機でお茶系飲料は必ずあります。すでにお茶が認知されている中で、お茶文化を発信する博物館をつくる必要があったのでしょうか?

笹目:博物館を開館しようと考えたのは、なによりも消費者のみなさんにもう一度お茶を飲むという行為を認識してもらいたかったという思いがあります。私は、お茶を飲むスタイルの進化系が缶やペットボトルだとは思っていません。消費者の生活シーンに合わせて、お茶の楽しみ方が変化してきたのです。

そうした未来のお茶を考える場として同館を位置付けています。お茶は単に喉を潤す、水分補給するという役割だけではなく、文化面においても多様な顔があることを知ってもらいたいのです。

お茶には、人と人が集まるときに「つなぐ」役割がありますし、一昔前なら人に声をかけるきっかけでもありました。例えば、農作業や事務作業の休憩を入れる合図として「お茶にしようよ」と言ってみたり、都市部でも昭和期には街行く方に声をかける際に「お茶でもどうですか?」が一般的でした。また、茶道の稽古や茶会で人が集まりますが、礼儀作法を学ぶことや人と人とをつなぐ触媒のような役割が、お茶にはあるのです。

結果的に同館でお茶を学びながら、茶業者同士がつながる、お茶屋と消費者がつながる場としても使っていただけたらと思っています。

もっといえば、お茶にはそれぞれの産地があります。同館を東京につくることになって、来館者には静岡や九州からお見えになる方も多いんです。アンテナショップ的な位置付けでも構いませんので、お茶が好きという方が集まれるような場所、お互いがお茶について考える場になったらいいなと思っています。

そのほかにも、同館の歴史・文化的な側面としては蘭字関係の展示をしています。蘭字とは、輸出用のパッケージに貼っていたお茶用のラベルです。明治初期、日本からは横浜から海外へと盛んに生糸や茶が輸出されていました。八王子と高崎を結ぶ八高線は生糸を輸出するために路線でした。そして八王子は産地ではなかったのですが、地理的な特性から茶の集積地になり、八王子茶と命名され海外へと輸出されていたのです。蘭字からは、そうしたお茶の流通に関する歴史を見ることができます。こうした歴史もお茶を知る上では欠かせません。

ウーロン茶の認知拡大のきっかけはピンク・レディー

――先ほど、ウーロン茶の話が出ました。現在は緑茶と並びコンビニ・スーパー・ドラッグストアでは欠かせない飲料になっています。

笹目:ウーロン茶といえば、他社の商品をイメージする人が多いかもしれません。しかし、実は伊藤園が世界で初めて缶入りのウーロン茶飲料を販売しています。歴史は、伊藤園は中国の福建省とウーロン茶の輸入に関する代理店契約をして販売していた時にさかのぼります。

当時、ウーロン茶は日本で広く飲まれている状況はありませんでした。注目されるきっかけになったのが、「夜のヒットスタジオ」という番組で、当時大人気だったピンク・レディーが出演して「美貌を保つ秘訣としてウーロン茶を飲んでいる」という話をしたことです。この話がクローズアップされまして、ウーロン茶という飲み物と、ウーロン茶の総代理店をしていた伊藤園が広く認知されるようになりました。

そこで、これを機に伊藤園では缶入りのウーロン茶を開発します。年中通して飲んでもらうためにいつでもどこでも持ち運びができるものを考え、ウーロン茶を缶で飲料化しようということになったのです。

ウーロン茶を緑茶に先駆けて飲料化の実現に成功し、1980年に世界で初めて「缶入りウーロン茶」が誕生しました。ただし、伊藤園はあくまでお茶屋さんなので、販売方法が分かりません。そこで当時の先行企業であった複数社と契約して、他社さんと一緒にウーロン茶を販売したのです。

――ウーロン茶の輸入という話が出ました。緑茶は国内産というイメージが強いと思いますが、輸入もしているんでしょうか?

笹目:伊藤園ではオーストラリアでもお茶を栽培していますが、基本的に海外市場に向けて生産しており、国内で販売している「お~いお茶」の茶葉は原則として国内産を使用しています。

日本茶の歴史を振り返ると、明治期には日本でも海外へ輸出するためにウーロン茶や紅茶の研究開発や、実際に生産をしている時期がありました。そして、最近では和紅茶の生産に乗り出す茶農家も増えているんです。決してウーロン茶や紅茶が日本に馴染みのないお茶というわけではないのです。

日本のお茶、海外のお茶それぞれに味や香りに特色があり、それぞれの違いを楽しめるような環境つくっていきたいと思っています。

来館者を案内する笹目館長

ホットとアイスに違いはある?

――現在、ホットのお茶もコンビニや自販機で当たり前に販売されています。冷たいお茶と温かいお茶、容器が違いますね。

笹目:お茶は飲んでいる人たちが思っている以上に、生産方法も加工の工程も、そして淹れ方も時代で変わってきています。昔は煮出すようにお茶を淹れていました。そのため、茶葉も煮出すことに主眼を置いた加工がされていました。中世に茶道が広まったときは粉末状にした抹茶が普及し、茶道の作法にも変化が生じていきます。

現代においても、お茶を飲む上でも容器の変化は見逃せない部分です。缶からペットボトルへと移行していった時にも、伊藤園で1.5Lや2Lのペットボトルを販売していました。

実は、現在のようにペットボトルが小型化したのは、ペットボトルの成形技術が進化したからではないんです。ペットボトルによる飲料の販売が始まった当初、ゴミ問題への意識もあり、飲料メーカー全体の意識としては500mlなど小型のペットボトルの販売は控えようと、業界として自粛していました。

そのため、1.5Lや2Lという家庭用のペットボトルを中心に販売していました。そのような中で、1996年に従来のペットボトルよりも小型化した、今ではお馴染みになっている500mlのお茶のペットボトル飲料を業界に先駆けて伊藤園が販売し、業界としても販売自粛が解禁されたのです。そうした変化と同時に、温かいお茶をペットボトルでも飲みたいというニーズも高まっていきます。

そもそも冷たいお茶と温かいお茶では、味わいの感じ方に大きな違いが出ます。そのため、冷たいお茶と温かいお茶ではつくり方を変える必要があります。茶葉や製法の違いのほか、容器も冷たいと温かいで変えなければなりません。冷たくして販売するためのお茶の製品を加温しますとお茶の劣化が早くなりますし、それはお茶の味にも影響を及ぼします。また容器も変形してしまいます。

お茶の味の劣化や変形を防ぐには、プラスチックフィルムなどの包装材料が酸素を透過する酸素を抑える酸素バリア性が高く、加温販売に耐えうるペットボトルを開発しなければなりませんでした。こうしたペットボトルを開発し、そして加温販売機が店頭に設置されたことでホットのお茶もコンビニなどで販売できるようになったのです。

――お茶の文化創造博物館には、「お~いお茶ミュージアム」が併設されています。両館とも伊藤園が運営母体になっていますが、その違いを教えてください。

お茶の文化博物館とは別に、お~いお茶ミュージアムも併設

笹目:「お茶の文化創造博物館」は、伊藤園という企業から距離を置いて、喫茶の変遷についての展示をしています。「お~いお茶ミュージアム」には、私とは別に館長がいます。こちらは、平たく言えば企業のPR用のミュージアムという位置付けです。

ふたつの博物館が並んでいるので、よく「期間限定ですか?」とか「伊藤園の宣伝なんですよね」と言われます。しかし、お茶の文化創造博物館は、そうした企業の部分から切り離してお茶が長く飲み続けられているんだったら歴史に学ぶことが多いはずという理念から出発しています。そのため、お茶の歴史から掘り起こす博物館になっています。

お茶は、その時々に応じ変化しながら人と人をつなぐように飲み続けられてきました。これからも生活スタイルの変化に寄り添うように様々変化しながら飲み続けられると思っています。

日本のお茶は飲料としても文化としても世界に誇るべきものです。その一方で、国内に目を転じてみると、茶農家も後継者不足によって荒廃した茶畑が目立つようになりました。このまま何もしなければ、日本のお茶産業が衰退していくことは避けられません。国内のお茶産業が衰退してしまえば、ここまで培われてきたお茶の歴史も文化も消失してしまうことでしょう。

文化としてのお茶を後世へと受け継いでいくためには、産業としてのお茶を活性化させなければなりません。そのためにも、荒廃した茶畑を再造成して大規模茶園へと蘇らせる新産地事業にも取り組む必要があるのです。

こうした取り組みも時代によって茶生産が変化していることの表れですが、茶業界に携わる関係者のみならず、お茶を楽しむ消費者にも、博物館という施設を通じてお茶の文化を伝えていくことの重要性を感じています。

お茶の文化創造博物館

所在地:東京都港区東新橋1-5-3 旧新橋停車場内
開館時間:10時~17時(最終入場16時30分まで)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日休館)、年末年始
料金:大人500円、学生300円、70歳以上と高校生以下無料、障がい者手帳を持っている場合、本人と付添い1名は無料

小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。