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慶應 三田キャンパスは名建築・芸術作品の宝庫 そこには福澤諭吉の思想が

慶應義塾大学の正門(南門)。田町駅から徒歩5分の距離だが、キャンパス内は都心の喧騒と隔絶された空間になっている

福澤諭吉は長らく一万円札の顔として親しまれてきましたが、なんと言っても慶應義塾の創始者として歴史的に名を残しています。慶應義塾大学は名門大学として全国的に知られ、政界・官界・財界などに多くの人材を輩出してきました。

慶應義塾大学は東京都と神奈川県にキャンパスを有しますが、東京都港区の三田キャンパスは幕末に開設した由緒ある地のため、歴史的な建築物が多く残されています。

それらの建築群は慶應義塾だけではなく、地域にとっても重要な文化資源になっています。慶應義塾はキャンパス内の文化資源を地域住民にも一般公開する「建築プロムナード 建築特別公開日」という取り組みを2015年度から実施。今年は初開催から10年目にあたります。10年という節目を機に、三田キャンパスを探訪して名建築を見てきました。

日本伝統の壁塗りの様式の外観が異彩を放つ三田演説館

11月12日と13日、慶應義塾大学が「慶應義塾三田キャンパス 建築プロムナード―建築特別公開日」を実施しました。同イベントは東京都港区に所在する三田キャンパスの建物群を広く一般に公開するイベントです。

慶應義塾大学のなかでも三田キャンパスは特別な存在です。三田キャンパスは、JR山手線の田町駅から徒歩5~6分の場所にあります。近年は品川駅や高輪ゲートウェイ駅の再開発が活発になっていますが、田町駅は高輪ゲートウェイ駅の隣にあるにも関わらず、隣駅ほどの大きな再開発の波は押し寄せていません。駅前は多くの人が行き交っていますが、三田キャンパス内は駅前の喧騒から隔絶された雰囲気が漂います。

田町駅周辺には芝浦工業大学の芝浦キャンパスもありますが、田町駅の大学といえば誰もが慶應義塾大学を真っ先に思い浮かべることでしょう。都心に位置する三田キャンパスは決して広いとはいえませんが、キャンパス内の建物は長い歴史を有しています。そうした長い歴史の中で慶應は地域に根付き、三田(田町)といえば慶應というイメージが定着していきました。

慶應義塾大学の三田キャンパスは、慶應の教職員や学生でなくても立ち入ることができます。ふらりと訪れてもキャンパス内の建物を見学できますが、通常は一般公開していない三田演説館や旧ノグチ・ルームなども特別公開日に一般公開されます。これを目当てに、建築ファンや地域住民が三田キャンパスに足を運びます。

JR山手線の田町駅から5分ほど歩くと、慶應義塾大学の正門(南門)が見えてきます。南門をくぐり階段を上ると、広場のような空間が現れます。その広場の周辺にはベンチなどが配置されて学生と思しき男女が談笑していたり、お弁当を広げたりしています。

そんな一般的な大学のキャンパスといった雰囲気の広場から三田演説館へと足を向けてみます。同館の手前には慶應義塾の創立者である福澤諭吉の胸像が建立され、いかにも特別な建物であることが暗示されています。

三田演説館の前に設置された福澤諭吉の胸像

同館は1875年に竣工しました。地上2階でこぢんまりとしているので、説明を受けなければ通り過ぎてしまいそうな建物ですが、なまこ壁と呼ばれる平瓦を壁に並べて貼って継ぎ目に漆喰を盛り上げて塗る日本伝統の壁塗りの様式の外観は異彩を放っているので、立ち止まって眺めていると荘厳な雰囲気を実感できます。外観は日本伝統の和風ですが内部は洋風の構造になっている和洋折衷の不思議な建物です。

木立の中にひっそりと佇む三田演説館。外壁にはなまこ壁という和風の伝統技術が見られる

1923年の関東大震災によって三田キャンパス内の建物は多くが倒壊・焼失しましたが、演説館は震災を生き延び、現在地に移築されています。そして戦災も免れました。そうした歴史的価値を評価され、1967年に重要文化財に指定されています。

震災で損壊したものの、卒業生が資金を集めて再建された塾監局

演説館の次に、塾監局へと足を向けてみます。塾監局とは、慶應義塾の本部機能を果たす建物で、大学にとって重要な建物といえます。残念ながら初代の塾監局は1923年の関東大震災で損壊しています。

新しい塾監局の設計を担当したのは、曽禰中條(そねちゅうじょう)建築事務所です。同事務所は明治建築界をリードした曽禰達蔵と中條精一郎の両名によって設立され、明治から戦前昭和まで多くの建築物を手掛けました。当時の曽禰中條建築事務所は日本一の建築事務所と呼ばれることもありました。

曽禰中條建築事務所が設計した塾監局。内部もクラシカルな雰囲気を保っている

新しい塾監局の設計は曽禰中條建築事務所に委ねられましたが、塾監局の再建には問題がもうひとつありました。それが建設費です。三田キャンパス内の建物の多くは震災によって損壊していたので、それらを復興させるに莫大な費用がかかりました。

当時の金額で再建費用に約35万円が必要と見積もられ、多額の資金を集めるために塾長・福澤一太郎は塾債を募集します。塾長の呼びかけに応じて卒業生などが協力的に再建資金を集めていきました。こうして再建資金にメドが立ち、塾監局は1926年に再建されたのです。

以降、曽禰中條建築事務所は三田キャンパスのみならず日吉や信濃町など慶應義塾大学の建物を担当するようになります。

荘厳なエントランスとステンドグラスが印象的な図書館旧館

塾監局のすぐ北側にある図書館旧館(現・福澤諭吉記念慶應義塾史展示館)を見ていきましょう。その名前の通り図書館として建設された同館も曽禰中條建築事務所による建物です。

震災と戦災を生き抜いた図書館旧館(福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館)は、美しい赤レンガの外観

同館は美しい赤レンガ外観のために三田キャンパス内でもひときわ目立ちます。関東大震災では生き残りましたが、戦災では木造だった一部が焼け落ちました。幸いなことに、赤レンガ部分は戦災からの焼失を免れています。残った部分を取り壊すことなく再建し、これが現在まで受け継がれています。そうした歴史を経た図書館旧館は、演説館とともに重要文化財に指定されています。

図書館旧館の内部に入ってみましょう。正面玄関から中へ入ると荘厳な雰囲気のエントランスがあり、正面にはステンドグラスの窓が見えます。このステンドグラスは洋画家の和田英作が原画を担当し、ステンドグラス作家の小川三知が施工しました。

和田英作と小川三知がタッグを組んで制作されたステンドグラスの復元

和田は帝国劇場の天井画、東京駅や赤坂離宮の壁画などを担当し、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)の校長を務めた日本を代表する芸術家です。一方、小川は一般的に名前を知られていませんが、東京美術学校で日本画を学んだ後に海外で修行を積んでステンドグラス作家に転身。日本でステンドグラスを普及させた第一人者でもあります。

手がけたステンドグラスは現存しているものが少なく、同館のステンドグラスも1967年に復元されたものです。

煌びやかなステンドグラスの階段を上がると、館名の通り福澤諭吉や慶應義塾の歴史を学べる展示室があります。通常は福澤諭吉や慶應義塾を紹介する品々が展示されていますが、2023年には慶應義塾高校(神奈川県)が107年ぶりとなる夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)に優勝したこともあり、その優勝旗が展示室の一画に飾られていました。

福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館では、福澤諭吉の功績や慶應義塾の歩みを学ぶことができる
慶應義塾高校は2023年に夏の甲子園大会で優勝。その優勝旗が福澤諭吉記念慶應義塾史展示館に飾られていた(2023年12月撮影。現在は展示していない)

建築家と彫刻家のコラボにより独創的な空間

最後に南館に移設展示された旧ノグチ・ルームに足を運んでみましょう。旧ノグチ・ルームは南館3階のルーフテラス部にある建物です。通常は一般公開されていませんが、特別公開日に限って誰でも自由に見学できます。

南館は現代的な建物だが、その3階のルーフテラス部には旧ノグチ・ルームが移築・保存されている
旧ノグチ・ルームのファサード
旧ノグチ・ルームの内部

旧ノグチ・ルームも複雑な歴史を経て、現在に至っています。戦火によって三田キャンパスの建物はことごとく焼失しましたが、慶應義塾は終戦後に建築家の谷口吉郎がキャンパスの復興を依頼しました。

谷口は建築家としてキャンパスの再興に尽力しましたが、その過程でアメリカ人彫刻家のイサム・ノグチに協力を依頼しています。イサム・ノグチは彫刻家であり、建築家ではありません。しかし、類まれなるセンスを発揮して、それまでにない独創的な空間を生み出しました。谷口・ノグチのコラボレーションは、建築・室内デザイン・彫刻・庭園が結びついた空間芸術と評されるほど素晴らしいものになりました。

しかし、制作から歳月が経過して建物が老朽化。2005年に南館が竣工すると、不完全ながらルーフテラスへと移設・保存されました。また、南館のエントランスにはノグチの作品も展示されています。

南館1階に展示されているイサム・ノグチの芸術作品

キャンパス内には、イサム・ノグチのほか猪熊弦一郎や朝倉文夫などの作品も展示されています。キャンパス内の建築だけではなく、芸術作品を見て回ることも三田キャンパスのもうひとつの楽しみ方といえます。

三田キャンパスの建築は福澤諭吉の思想に基づいている

ここまで歩いてきて、三田キャンパスは建築的にも見どころが多いことはわかってもらえたと思いますが、これらは創立者である福澤諭吉の思想に基づいています。

鎖国を解いた江戸末期から明治初期にかけて、多くの日本人たちは西洋の新しい文化を目の当たりにして戸惑いました。福澤もその一人でしたが、産業革命が果たした技術の発展が国家や国民生活を向上させると理解し、西洋文化を国内に啓発するべく『西洋事情』を出版したのです。

同書の扉絵には、産業革命の象徴として蒸気機関車や船、気球と並び高楼が描かれています。現代で言えば超高層ビルにあたる高楼を描いたことからも、福澤が建築に高い関心を示していたことは間違いありません。

明治期の三田キャンパス内には高楼と呼べるような高い建物はありません。当時は、まだ建築技術が未発達であり、それらを設計できる技術者もいませんでした。

しかし、福澤は最先端の建築技術・思想を果敢に取り入れようと試みました。実際、三田キャンパスの建物を設計するにあたり、福澤は工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業して活躍を始めていた藤本寿吉に設計を依頼しているのです。

藤本は福澤に縁戚にあたりますが、そうした個人的な関係から設計を依頼したわけではありません。藤本は西洋建築の技術・思想を学び、さまざまな西洋建築を東京に生み出していました。その実力を評価して、キャンパスの建物も依頼したのです。

1923年の関東大震災によって三田キャンパス内の建物は倒壊・焼失しました。藤本は1895年に没しているため、再び建物の設計を依頼することが叶いませんでした。

そこで藤本と同じく工部大学校でジョサイア・コンドルに学んだ曽禰達蔵に白羽の矢が立ちます。曽禰は中條精一郎と両名で設立した曽禰中條建築事務所を設立。同事務所が三田キャンパスの建物群を担当したのです。

歴史的建築が溢れる三田キャンパスですが、歳月の経過とともに建物が老朽化してしまうことは避けられません。当時はバリアフリーや環境性能が考慮される時代ではありません。また、時代とともにIT化が求められるようになり、それに対応するような施設へと改修する必要も出てきます。キャンパス内の建物も時代に合わせてアップデートしなければならないのです。

キャンパス内では1981年に図書館機能を拡張するために新しい図書館が、1985年にはさらなる教育の充実を図るために大学院校舎が竣工しています。2つの建物は槇文彦がデザインを担当していますが、槙は慶應義塾幼稚舎や慶應義塾普通部を卒業するなど、慶應義塾と縁の深い建築家でもありました。

1981年に竣工した図書館。設計は槇文彦

その後も三田キャンパスはアップデートを続けています。こうして、三田キャンパスには明治の歴史ある建築から現代的な建築まで凝縮されることになり、芸術作品も楽しめる“生きたミュージアム”になったのです。

大学のキャンパスは学生以外には無関係な施設と受け止めがちですが、建築・芸術を楽しむことを目的に足を運んでみると新しい発見があるかもしれません。

小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。