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北陸新幹線の終点・敦賀はかつて鉄道の要衝地だった 敦賀港線を訪ねる

敦賀駅西口。敦賀駅は東西の出口があるものの、市街地は西口側に広がっている

今春のダイヤ改正で、全国的にもっとも注目されたトピックは北陸新幹線が敦賀駅まで延伸したことです。北陸新幹線の敦賀駅までの延伸開業は福井県、特に終点となる敦賀を一躍有名にし、観光客を呼び寄せる絶大な効果をもたらしました。

明治期の敦賀は欧亜国際連絡列車が運行され、敦賀からロシア、そしてヨーロッパを結んでいました。いわば、敦賀は日本の玄関でもあり、鉄道の要衝地でもあったのです。

北陸新幹線が延伸開業を果たした現在、敦賀の中心部には観光客が多く足を運んでいる姿を目にできますが、鉄道の街といった趣を感じることはありません。延伸開業フィーバーも少しずつ収まっていくことでしょう。そんな今だからこそ、鉄道で繁栄を築いた痕跡や欧亜国際連絡列車が走った敦賀港線の廃線跡を訪ねてみました。

敦賀港駅と北陸本線の歴史

「長野新幹線」として部分開業していた北陸新幹線は、2015年に長野駅-金沢駅間が開業し、名実ともに北陸地方を走るようになりました。しかし、富山県・石川県・福井県の北陸3県のうち、福井県だけは新幹線が走っておらず、延伸開業効果は限定的でした。

今春、金沢駅-敦賀駅間が開業し、福井県内にも待望の新幹線が走り始めました。東京から新幹線一本で福井県まで移動できるようになりましたが、他方で大阪・京都といった関西圏・名古屋圏から福井駅や金沢駅まで特急一本で移動できなくなり、関西圏・名古屋圏との関係が希薄になるという不安材料も指摘されています。

また、敦賀駅の新幹線・在来線の乗り換えには約8分の所要時間が必要と言われ、その移動が大変という声も聞こえてきます。

3月から4月は春休みシーズンにあたり、開業フィーバーで福井県は盛り上がりました。また、4月から5月にかけてのゴールデンウィークもコロナ禍が収束したために観光客・来街者が急増しています。今のところ北陸新幹線開業による経済効果・観光客増といった報道が目立ち、デメリットは目立っていません。

敦賀駅構内に掲示された「北陸新幹線敦賀開業」を祝するプレート

しかし、北陸新幹線の延伸開業フィーバーは必ず沈静化します。地元では、そうしたブーム収束に備えて開業前から観光客・来街者を取り込むためのまちづくりを続けてきました。

福井県や敦賀市は金ヶ崎周辺魅力向上デザイン計画を策定し、まちづくり計画を進めている(出典:敦賀市)

敦賀の観光・レジャースポットはたくさんありますが、なかでも筆者が注目したのが鉄道遺産である敦賀港線です。

敦賀港線は敦賀駅-敦賀港駅間を結ぶ約2.7kmの短い路線ですが、開業から複雑な歴史をたどっています。敦賀港線を取り巻いていた状況を知らなければ、敦賀港線の沿線を歩く楽しみは半減してしまいます。まず、敦賀港駅や北陸本線がたどった歴史から簡単におさらいしておきましょう。

1882年、滋賀県の長浜駅から福井県の敦賀駅・金ヶ崎駅間で北陸線が開業します。このときに開設された敦賀駅は、古代から北陸道総鎮守として気比神宮の近くに立地。1909年に北陸線を北へと延伸するにあたり、敦賀駅の立地が問題となり、敦賀駅は現在地へと移転。この移転によって配線構造にも変化が生じ、長浜駅から敦賀駅へと到達した列車が金ヶ崎駅へと向かう場合はスイッチバックすることになりました。

現在の北陸本線は全線が電化されていますが、当時は蒸気機関車が牽引する列車です。方向転換には蒸気機関車の付け替え作業が生じるため、敦賀駅では大きなタイムロスが生じました。

そこで1912年に敦賀駅から金ヶ崎駅へと向かう線路を付け替え、スイッチバックを解消します。同年には新橋駅-金ヶ崎駅間に急行列車の運行が始まります。同急行列車は金ヶ崎駅で敦浦(現・ウラジオストック)への航路便と連絡するダイヤが設定されていました。

敦浦からはシベリア鉄道を経由してヨーロッパへと移動できることになっていたため、新橋駅発の金ヶ崎駅行きの急行列車は、欧亜国際連絡列車と呼ばれるようになります。

欧亜国際連絡列車の運行により、日本の玄関口となった敦賀の名前は急速にロシア・ヨーロッパ諸国に広まり、それらを受けて金ヶ崎駅は1919年に敦賀港駅と改称されました。

国際都市として敦賀の名前が西洋に広まる中、1917年にロシア革命が勃発。その影響から1924年に欧亜国際連絡列車は運行を休止することになりましたが、1927年に運行を再開しています。

しかし、第二次世界大戦が開戦すると、日本人の海外渡航が厳しく制限されるようになります。その結果、欧亜国際連絡列車は運行されなくなるのです。

終戦後も敦賀港線は旅客・貨物線として列車が運行されていましたが、再び1987年に旅客営業を終了。その後は貨物専用線として使用されてきました。2009年に貨物列車の運行も終了しましたが、正式な廃線は2019年です。

敦賀港線の線路跡

敦賀港線が正式に廃線になってから、それほど歳月は経過していません。それでも貨物列車が走らなくなってから約15年が経過しました。その間、敦賀駅から敦賀港駅までの区間の一部は、線路が剥がされています。

廃線跡に沿った畦道を歩く

敦賀駅は東と西、両側に出入口がありますが、市街地が広がるのは西口です。東口は新幹線開業に伴って駅前広場などが整備されましたが、周辺は住宅と工場が点在するぐらいで、観光客・来街者が足を向けるようなスポットはありません。

観光客でにぎわう西口を出ると、駅前ロータリーと広場、そして広場を囲むように商業施設などが並んでいます。北陸新幹線の延伸開業に合わせて、これらが整備されたことは想像に難くありませんが、今回の目的はあくまでも敦賀港線です。

敦賀駅西口の傍には、敦賀駅開業100周年記念碑がひっそり建立されています。あまり目立ちませんが、SL9600形の動輪を使っている碑は、いかにも鉄道の街であることを感じさせます。

1982年(昭和57年)に、敦賀駅開業100周年を記念して駅前に建立された動輪

駅西口から北へと延びる北陸新幹線の高架に沿って歩きます。駅前通りはにぎわっているように見えましたが、そこから一本道をはずれると急に住宅街然とした街並みに変わります。特に飲食店や土産物店などもなく、この道を歩いているだけだと、北陸新幹線の開業フィーバーを感じることはできません。

住宅街を歩くこと約5分、少し大きな通りに出くわします。そこから線路側に視線を向けてみると、道路にレールが埋まっているのを発見。これが敦賀港線の廃線跡です。残念ながら廃線跡には側道がないため、回り道をしながら廃線をたどることになります。再び住宅街を歩くことになりますが、ところどころで家と家の間から廃線跡を目にできます。

道路と線路の交差部にも敦賀港線のレールが残っている

敦賀港線に沿って建つ家が途切れると、小さな公園が出現。公園からは敦賀港線の線路や施設などを間近に見ることができます。これだけでも、廃線ファンは大興奮しそうですが、敦賀港線の遺構探検は、ここからが本番です。

というのも、敦賀港線はグーグルストリートビューなどでも見ることができる区間が多いのです。特に現地に足を運ばなくても、それなりに廃線探索をWeb上で楽しめます。しかし、ここからの区間は廃線に沿って畦道のような場所があり、その畦道からの廃線の様子はグーグルストリートビューで楽しむことができません。

廃線跡に沿った畦道を数分間歩くと、敦賀市の天筒浄化センター付近から再び舗装された道路が現れます。国道476号線の高架をくぐり、天筒山に沿った線路を見ながら歩くと、土砂崩れによって線路が埋まっている箇所に出くわしました。敦賀港線は列車が運行されていませんので、土砂崩れが起きていても運行上の支障は出ません。周囲の家屋に被害が及ぶようなら話は別ですが、特にそうした様子もありません。この土砂が撤去される日は来るのでしょうか?

敦賀港線の線路跡。前方に見えるのが、国道476号線バイパスの高架道路

そのまま歩いていくと、敦賀港線はトンネルをくぐります。筆者が歩いている側道にはトンネルがなく、ここで線路から離れて迂回します。国道8号線の下をくぐり、擁壁に沿って北へと歩くと再び敦賀港線の廃線跡が見えてきます。ただし、このあたりは線路が剥がされているので単なる空き地のようにしか見えず、ただ「関係者以外 立ち入り禁止」の看板が立ち、ロープに囲まれているだけです。

それでも廃線跡に沿って歩いて行くと、踏切だったような場所がありました。その傍らには敦賀港線で使っていたと思われる資材も置かれています。この先は線路と側道の間に用水路が流れていますが、特に大きくないので目視でも十分に廃線跡を楽しむことができます。

ひたすら歩いていくと鉄工所につきあたります。その地点には封鎖された敦賀港線の踏切があり、線路の先を見通すことができます。敦賀港線はこの先にも伸びていましたが、廃線探訪ができるのはここまでです。

敦賀港線の踏切跡。線路との交差部は立ち入れないようになっている
敦賀港線の踏切は撤去されているが、警報器や遮断機、踏切警標などは線路脇に野積みされたまま放置されている
敦賀港線の終端部だった地点はコンテナ置き場になっている

1961年から運行されていた車両に出会う

しかし、敦賀の鉄道スポットは敦賀港線の廃線跡だけではありません。明治期に欧州の玄関口でもあった敦賀港には、多くの外資系企業が進出。営業所や倉庫などが並びました。現在、観光客でにぎわう赤レンガ倉庫はアメリカのニューヨークスタンダード石油会社の貯蔵庫として整備された建物です。

赤レンガ倉庫の目の前には、福井県ならではの恐竜博士のベンチがある

敦賀港周辺は北陸新幹線の敦賀駅延伸を見据えて、鉄道遺産などを整備する計画が立てられていました。赤レンガ倉庫の横にはキハ28形が屋外で静態保存されています。

赤レンガ倉庫の隣に保存展示されているキハ28

同車両は福井県と京都府舞鶴市を結ぶ小浜線で急行「わかさ」として1961年から1999まで運行され、その後は和歌山県南紀白浜町のアドベンチャーワールドで保存。2016年からは鉄道車両や重量構造物の輸送・設置を主業務とする大阪府大阪市のアチハに引き取られていました。

2019年に敦賀市が鉄道フェスティバルを開催する際に、アチハからキハ28を借りて展示。それが好評を博したことから、敦賀市が2021年に車両を引き取って同地に保存しています。

キハ28が展示されている赤レンガ倉庫から数分歩くと、敦賀鉄道資料館もあります。同資料館は1999年に敦賀港の開港100周年を記念して開催された「つるが・きらめきみなと博21」に合わせて旧敦賀港駅舎を再現したものです。館内には往時の写真やグッズ、資料が所狭しと並べられています。

敦賀港駅を再現した敦賀鉄道資料館

ちなみに、先ほどの赤レンガ倉庫を挟んだ逆側には2020年にリニューアルオープンした「人道の港 敦賀ムゼウム」という博物館があります。同館は4つの建物が連なって構成されていますが、こちらにも旧敦賀港駅舎が再現されています。

4つの建物が並ぶ「人道の港 敦賀ムゼウム」

そんな至近距離に敦賀港駅舎が2つも再現されていることを鑑みると、敦賀は鉄道の街という自負とともに敦賀港駅の重要性が感じられます。

最近は決して廃線ウォークもマニアックな趣味ではなくなっています。敦賀港線の探索、ぜひとも挑戦してみてください。

小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。