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戦時中ニセ札を製造していた登戸研究所 今も残る秘密戦の史料
2023年10月19日 08:40
小田急線生田駅から徒歩で7~8分、小高い丘が見えてきます。その丘の上に広がるのが明治大学農学部・理工学部のキャンパスです。明治大学は同地を1950年に購入しましたが、太平洋戦争中は陸軍が秘密戦のために開設した、「登戸研究所」と呼ばれる研究機関でした。明治大学のキャンパス地になった後も登戸研究所時代の建物は残されており、現在は明治大学平和教育登戸研究所資料館として使用されています。
名前からも窺えるように、同資料館は登戸研究所の実態を通じて戦争の悲惨さと平和の重要性を後世へと伝えるためのミュージアムです。2010年の開館時から館長を務めてきた山田朗明治大学教授に、同館の成り立ちから今後の展望までを伺いました。
登戸研究所は、戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所です。秘密戦兵器・資材を研究・開発していました。正式名称は第九陸軍技術研究所ですが、研究・開発内容を決して他に知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていました。
登戸研究所は、アジア太平洋戦争において秘密戦の中核を担っており、軍から重要視された研究所でありましたが、終戦とともに閉鎖されました。その後、1950年代に登戸研究所跡地の一部を明治大学が購入し、現在の明治大学生田キャンパスが開設されました。
(明治大学公式サイトより)
明治大学生田キャンパスの地にはかつてニセ札印刷工場があった
――明治大学登戸研究所平和資料館が開館した経緯からお伺いしたいと思います。
山田氏:明治大学登戸研究所平和資料館が開館したのは2010年です。明治大学は生田キャンパスとなる同地を1950年に購入しました。それまで同地は慶應義塾大学・北里研究所・巴川製紙の3者が使用していました。
慶應義塾大学は日吉にキャンパスを構えていましたが、進駐軍に接収されていました。そのため、同地を日吉キャンパスの代替として使用していたのです。
接収解除後に慶應義塾大学が日吉に戻ることになり、1950年に明治大学がその跡地を購入。翌1951年に農学部が移転し、1964年に工学部(現・理工学部)が移転してきます。こうして、少しずつ今のようなキャンパスへと姿を変えてくわけですが、当時のキャンパス内には登戸研究所を伝えるような建物が多く残されていたんです。
――現在は明治大学登戸研究所平和資料館になっているこの建物も、登戸研究所時代の建物ですか?
山田氏:登戸研究所の研究施設であった建物を保存・活用しています。農学部の実験・研究施設「36号棟」として使用され、その後資料館として活用しているのですが、実は明治大学生田キャンパス内に現存するもっとも古い建物です。この建物を活用して戦争遺跡の保存、つまりミュージアムとしての登戸研究所の保存を目指したのです。
そのほかにも登戸研究所で使っていた建物が、もうひとつ残っていました。木造の5号棟と呼ばれていた建物です。5号棟は全長50メートルの平家建てで、非常に大きな建物でした。というのも、登戸研究所はニセ札の研究も手がけており、5号棟はニセ札を実際に印刷するための工場だったのです。
――ニセ札を兵器と表現するのは適正ではないかもしれませんが、敵国で使用することで経済を混乱させるという意味では兵器だったと思います。そのほかに、登戸研究所が秘密戦のために研究・開発していた兵器にはどんなものがあるのでしょうか?
山田氏:登戸研究所は第一科が特殊兵器・電波兵器、第二科が憲兵・スパイ器材や毒物・生物兵器、第三科がニセ札製造、第四科が研究品の製造・補給・使用指導をそれぞれ担当していました。
研究所が開発・製造のためにもっとも長い時間を費やしていたのは「く号兵器」、いわゆる怪力光線でした。怪力光線は強力な超短波を発射して物体や人体を電波によって攻撃する兵器で、ここが実験場と呼ばれていた1937年から研究が始まっています。その研究は敗戦まで続けられていたのです。
生物兵器のひとつでもあった風船爆弾は1942年、途中から割り込む形で研究が開始されています。戦況が進むにつれて、秘密戦の主役になっていくのは二科です。二科は憲兵・スパイ器材、毒物・生物兵器の研究開発を担当し、第一班から第七班までありました。二科は代替できる研究機関がない、唯一無二の存在でした。
ニセ札製造は、戦後にGHQの密命を帯びて所員が暗躍しています。こうして登戸研究所が手がけた兵器を並べてみますと、どれも陸軍にとって重要だったと思います。ただ、秘密戦の兵器づくりの主役は二科、つまり毒物・生物兵器です。
――登戸研究所は、陸軍から多くのミッションを与えられていたんですね。それにしても、ニセ札を印刷していた5号棟の解体はとても残念です。
山田氏:5号棟に関しては、川崎市教育委員会とも協議して何とか最後の最後まで残すことを模索しました。5号棟は木造だったのですが、雨漏りがひどいために傷みも激しかったのです。そのため、保存は叶わず、2011年に解体することになりました。
戦争遺跡の保存という意味では残念なことでしたが、写真・動画も含めて可能な限りのデータを取り、一部の部材を残す記録保存をしています。
登戸研究所では毒物の研究を重要視 開館後にも新事実が判明
――明治大学のキャンパス内にあるので、資料館は明治大学の所有物だと思います。なぜ、川崎市と保存の協議をしているのでしょうか?
山田氏:川崎市教育委員会とは、いろいろとアドバイスを受けたり、こちらから相談する関係でしたが、それは将来的に国の登録文化財を目指しているからです。そのためには、神奈川県の推薦が必要になります。神奈川県の推薦をもらうために、川崎市教育委員会とも相談するなど連携を密にしています。
――文化財に登録される可能性はありますか?
山田氏:私はあと3年半で定年退職を迎えます。それまでに実現したいと思っています。しかし、登録文化財になると、大学だけの意思で建物を改修したり、建て直したり、はたまた解体したりといったことができなくなる可能性があります。そういった制約が出てきてしまうので、心配をする人たちもいます。さすがに登戸研究所平和資料館を取り壊すことは考えづらいのですが、やっぱり登録文化財になることのプレッシャーのようなモノを感じてしまうんだと思います。
――開館の時から館長を務めています。その経緯を伺えますか?
山田氏:明治大学内で登戸研究所についてきちんと調べようという動きが1995年に出ました。最初のうちは、渡辺賢二先生に話を聞くという講座形式で始まりました。渡辺先生は30年以上にわたって登戸研究所の文献調査や実態解明をしてきた学者です。渡辺先生の話を聞いたり、調査に出かけたりして、大学もその活動に研究費を助成してくれました。
ところが、登戸研究所の研究会のメンバーが次々と定年を迎えてしまったんです。わりと年配の方が多かったから仕方がないのですが、最終的に研究会のメンバーで歴史学をやっていたのが私しか残っていませんでした。そのため、準備室長を務めることになりました。そして、そのまま開館を迎えることになり、館長に就任したのです。
――開館にあたって、館内のレイアウトや展示物の配置にも工夫を凝らしたと聞いています。
山田氏:まず、玄関を入るとレストスペースと呼ばれる空間があります。開館当初、いきなり登戸研究所の展示物を目にしてしまうと、そのまま戦争の世界に没入してしまい、それは来館者にとって刺激が強すぎると考えたのです。だから、レストスペースは戦争の時代とは何なのか? というところから解説して、少しずつ館内を進んで登戸研究所を知ってもらうことを意図していました。
ところが、いきなり登戸研究所の話から始めた方がスッと頭に入ってくるようなんです。前置きが長いと、登戸研究所の話にたどり着く頃には疲れてしまい、内容が頭に入ってこなくなってしまうみたいです。しかも、登戸研究所は多岐に渡る軍事研究をしていますので、それを説明すればするほど収拾がつかなくなって終わらなくなってしまうんです。
疲れてしまうと、展示物に目が入らなくなったり、関心が薄れてしまうので、最近レストスペースは、映像鑑賞のスペースとして使っています。
――開館から10年以上が経過して、新発見があって展示物の構成を変更する、みたいなことはなかったのでしょうか?
山田氏:登戸研究所は、陸軍が戦犯追及を恐れて文書を焼却処分しています。そのため、当時の文書はほとんど残っていないんです。開館時、登戸研究所に関しては不明な部分が多く、いまだに解明していない部分もあります。開館後に新しい文書が発見されて、それで判明した新事実もあります。
そもそも開館した2010年の時点で、私たちも登戸研究所について十分に理解していたとは言い難かったと思います。とにかく史料を散逸させないように、資料館をつくることを急いでいた面もありますので、内容としては未完成だったと言っていいでしょう。
開館当初は、特に毒ガス関連を強調するような展示物や資料映像を中心にしていました。それは、それまで登戸研究所が毒ガス兵器の研究に重点を置いていたと考えられていたからです。ところが、実態解明が進んでいくと、毒ガス研究には力点を置いていないことがわかってきたのです。毒ガスではなく、毒物の研究を重要視していたのです。
そのほかにも、企画展をやるために調べていくと、「こんな知らないことがあった」「こんな新しいモノが出てきた」という出来事がいくつもありました。
また、登戸研究所で働いていた人たちが、戦後にどんな生活を送ったのか? ということが常設展示には反映できていないと感じています。そうした新たな事実や反映できていない部分を補うために、これから5年ぐらいの長期計画で少しずつ展示をリニューアルしていくことにしています。
ただ、「なぜ旧日本陸軍の施設や資料を保存するのに、登戸研究所と無関係の明治大学が予算を投じなければならないんだ?」という反対意見は開館準備の段階にはあったようです。「登戸研究所なんて知っている人は少ないし、そんな資料館に来館する人はいない。2~3年も経ったら廃館だろう」という意見すら聞きました。
「飲み会をやった」だけの日記も重要な史料
――平成も終わり、今は令和へと時代が移りました。登戸研究所で働いていた人で存命の方は少なくなりました。お子さんやお孫さんが、「家から何か出てきた」といったことしか新事実の発見は期待できないと思いますが、今後はそういった可能性はあるのでしょうか?
山田氏:登戸研究所そのものではないんですが、陸軍中野学校を卒業した方に今年になってからインタビューをしています。その人は、霧島部隊に属していました。霧島部隊は本土決戦に備えて宮崎に配備された秘密戦部隊ですが、登戸研究所で開発・製造した兵器を使っていました。だから、どうやって使っていたのか? どんな訓練を受けたのか? という話を聞くことができました。
――秘密戦を担当した人たちは、墓場まで秘密を持っていく人も多かったと聞いています。
山田氏:実際に、自分の子や孫にも語らないままお亡くなりになっている人はたくさんいます。だから、保管していた日記や史料が出てきても、子や孫にはわけのわからないメモ書き程度の認識にしかならず、すぐに廃棄されてしまうんです。
登戸研究所と関係のある人だったら、とにかく史料を保存してほしいと働きかけています。登戸研究所の将校だった人の日記を子孫から寄贈してもらったときも、「日記を見ても、『飲み会をやった』みたいな話しか書いてないから、何の価値もないですよ」と言われました。
しかし、こちらからはそうした何気ない記述が重要で、特にその飲み会の日付は実態解明に重要な手がかりになります。というのも、登戸研究所では大きなプロジェクトの始めと終わりで宴会をやるんです。そうすると、飲み会の間隔で、ひとつのプロジェクトがどのぐらいの期間をかけていたかが把握できます。誰が出席したのかが書かれていたりすると、さらにいろいろなことがわかってきます。
そうした何気ないメモ書きを丹念に収集していくためにも、資料館がここに存在していることは重要です。例えば「家の倉庫から何か出てきた。だけど、これが何かわからない。とりあえず聞いてみよう」という話になってきます。そして、そうした史料が資料館に持ち込まれるんです。
――明治大学の生田キャンパス全体が登戸研究所の敷地だったわけですから、この資料館だけでは狭いように感じます。拡張したいという気持ちはありますか?
山田氏:この建物のほかにも収蔵スペースは確保していて、その収蔵庫はまだスペースに余裕があります。展示スペースはもう少し欲しいという気持ちはあります。企画展のときには廊下もフル活用していますが、常設展示は増やせません。
常設展示を充実させたいという気持ちが強いのは、歳月の経過とともに登戸研究所の実態解明が進んできたということでもあります。
あと、外国語のパンフレットは用意してあるんですが、展示物の解説文に外国語の説明文がありません。海外からの来館者もいますし、先ほど申し上げた登録文化財を目指す上でも展示物にも外国語の解説文が必要と思っています。
先ほど言及した今後予定している展示リニューアルでは、新たに判明したことを軸にしていこうと考えています。
山田朗(やまだ・あきら)
1956年、大阪府生まれ。愛知教育大学卒業後、東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。1999年に明治大学教授に就任。2008年、登戸研究所の保存と活用に取り組む資料館準備室が立ち上がると準備室長に、2010年に明治大学登戸研究所平和資料館が開館すると館長に就任した。