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横浜・シーサイドラインを全線踏破 歴史上の紆余曲折が凝縮された沿線模様

金沢八景駅を出発するシーサイドライン

横浜市金沢区・磯子区を南北に貫く金沢シーサイドラインは、横浜市・京浜急行電鉄・西武鉄道・横浜銀行などが出資する第3セクターの鉄道会社です。運行事業者の横浜新都市交通は1983年に設立。そして、横浜新都市交通は2013年に横浜シーサイドラインへと社名を変更しています。

今年は会社設立から40年、社名変更から10年にあたり、シーサドラインにとってダブルの節目です。そんな年を迎えた金沢シーサイドラインの沿線は、今どうなっているのでしょうか? 南端の金沢八景駅から北端の新杉田駅までの約10.8kmを全踏破してみて、沿線の様子を確かめてきました。

沿線マップ(出典:シーサイドライン公式サイト)

金沢区の歴史 人口増加で必要となった通勤手段

神奈川県横浜市は人口が約377万人で、国内最大の市です。2位の大阪市を大きく引き離し、100万人以上もの差をつけています。

そんな独走状態にある横浜市ですが、直近2年間は人口が減少しています。とはいえ、横浜市は広大で、交通の結節点となっている横浜駅、みなとみらい21地区に隣接する桜木町駅の周辺とイメージが異なる地区もたくさんあります。横浜市をひとつにまとめて語ることは難しいでしょう。

昨今、日本各地で人口減少トレンドの局面を迎えているので、2年連続の人口減少とは言っても横浜市のそれは決して深刻なものではありません。ただし、横浜市18行政区のデータを仔細に見ると、もっとも高い減少率となっているのが金沢区です。

2023年8月時点における金沢区の人口は、約19万5,000人。決して少ない人口ではありませんが、ピーク時は約21万人を擁するベッドタウンでした。

その金沢区は、六大事業によって埋立地が造成されて区域を広げました。また、区域が広がったことによって、人口も増加してきました。

六大事業とは、1963年から1978年まで横浜市長を務めた飛鳥田一雄氏が、高度経済成長期に横浜のさらなる発展を目指して取り組んだ事業です。そのメニューには、港北ニュータウンの開発や横浜ベイブリッジの架橋、横浜市営地下鉄などが盛り込まれていました。

金沢地先埋立事業も六大事業のひとつで、金沢沖には約660万m2の埋立地が造成されました。その埋立地の湾岸部は工場地帯に、内陸部は住宅地に姿を変えています。

湾岸部を工場地帯にしようと考えた背景は、明治期以降の横浜市の成り立ちが関係しています。開港場として栄えた横浜は、港周辺から発展を遂げました。

明治から大正期に工業化が進んだ際にも、港周辺に工場が林立。それらの工場は横浜の中心部となる桜木町駅・関内駅から近いこともあり、周辺の環境が悪化したのです。それらは戦後に問題視されるようになり、郊外への移転議論が本格化します。

つまり、金沢地先埋立事業は横浜中心部に所在していた工場を移転させることで、横浜中心部の環境改善を目指し、同時に都市化(商業地化)を達成する政策だったのです。しかし、工場を移転させることで、今度は金沢区の環境が悪化する懸念がありました。

同じ轍を踏まないよう、横浜市は金沢地先埋立事業で造成する工場地帯の一区画を大きくしました。それによって緩衝地帯を広めにし、工場と住宅地とを明確に分離。また、工場と住宅地の間に緑地をたくさん設けるなどして、良質な住環境を確保したのです。

金沢地先埋立事業で造成された住宅地はいくつかありますが、特に金沢シーサイドタウンと呼ばれる団地群が同エリアの人口を押し上げました。計画当初の金沢シーサイドタウンは、約3万人の居住人口を想定していたのです。

シーサイドタウンの人口が増え始める1970年代、シーサイドタウン居住者たちの足を確保することが課題として浮上します。シーサイドタウンへ移住してきた多くの住民は、横浜市などに通うサラリーマン世帯だったからです。

横浜市は通勤の足として金沢区を南北に貫く鉄道の建設計画を立案します。本来なら、埋立地に造成される住宅地と鉄道新線はセットで計画が進められるべきでしたが、当初の横浜市は鉄道では過剰な投資になるのでバスで十分と考えていたようです。

しかし、バスは定時性に欠くため、通勤・通学の足としては不向きです。また、バスの輸送力は鉄道よりも小さいために、バスが連なる通勤時間帯に激しい道路渋滞が起きてしまったのです。

それらの問題を解消するべく、横浜市はバスに代わる公共交通機関としてモノレールの建設を検討。議論が進むにつれて、モノレールから新交通システムへと整備案が変わり、最終的に金沢シーサイドラインが建設されたのです。

こうした経緯を経て、新交通を運行する横浜新都市交通が1983年に発足。1989年に新杉田駅-金沢八景駅間が開業しました。

近郊マップ(出典:シーサイドライン公式サイト)

開業当初から北端の新杉田駅はJRの根岸線と接続していました。一方、南端の金沢八景駅は駅用地が確保できず、京浜急行電鉄(京急)の駅と接続していませんでした。約200m離れた位置にシーサイドラインの駅が開設され、京急線とは徒歩連絡となりました。

乗り換えには200mの徒歩移動を伴うことになります。東京の地下鉄だったら、乗り換えに200m歩くことは珍しいことではありませんが、それが忌避されました。乗り換えが不便というイメージがシーサイドラインにつき、沿線は宅地化が進みません。

横浜市は不便な乗り継ぎを解消するべく、金沢八景駅への延伸工事を2012年に開始。まず、単線ながら2019年に約200mの延伸を果たします。その後、複線化の工事を実施。すべてが完了したのは2021年でした。これらの工事完了によって、全線が複線化されて名実ともに金沢シーサイドラインは金沢八景駅と接続したのです。

わずか200mの延伸工事は着工から完了するまで9年という長い歳月を要しました。その間、社名は横浜シーサイドラインへと変更しています。

八景島整備の目的は埋立で消失した水辺の復活

踏破は金沢八景駅からスタートしました。シーサイドラインとの乗換駅になっている京急の金沢八景駅は、特急の停車駅です。乗降客は多いのですが、特に目立つのが大学生です。金沢八景駅は横浜市立大学の金沢八景キャンパスから近く、駅西口は多くの学生が利用しています。

京急の金沢八景駅。駅名標の上にあるのが京急の改札口。その右手にシーサイドラインののりばがある

金沢シーサイドラインは、京急線の金沢八景駅を挟んで大学とは反対側にのりばがあり、こちら側は学生の姿は目立ちません。

シーサイドラインと京急の乗り継ぎは延伸によって利便性が改善されました。京急の改札口は高台に位置しているため、駅の構造は高低差を意識したデザインになっています。駅と駅前ロータリーのバスのりば間の移動には、階段やエレベーターの使用を強いられます。階段の上り下り、エレベーター待ちをしていると、金沢八景駅が山と海に挟まれていることを実感します。

駅前広場はロータリーになっており、路線バスが頻繁に発着。金沢八景駅が交通の結節点になっていることがわかります。金沢八景駅は横浜市の南端に位置し、横須賀市との距離はわずかしかありません。そうした立地から、横須賀市民の利用も多そうです。

駅前広場からモノレール沿いを歩いていくと、すぐに国道16号線が現れます。国道16号線は横浜市を起点に首都圏をグルリと周回する幹線道路です。国道16号線は明治期から軍港として栄え、軍事上の観点から重要拠点でもあった横須賀と帝都・東京とを結ぶ目的で建設された道路でもあります。国道16号線が正式に誕生したのは戦後ですが、それ以前の明治期から重要な道路と認識されていたのです。

そんな歴史ある国道16号線を渡ると、すぐに平潟湾が見えてきます。このあたりから一気に風景は一変。視界には海と緑が増えていきます。

平潟湾には多くの釣り船が係留され、周辺には釣船店なども営業。金沢八景の周辺は鎌倉時代から景勝地としてにぎわいました。現在も多くの行楽客が訪れる海浜レジャースポットとして人気です。

シーサイドラインは平潟湾プロムナードの頭上を約500m走って北東へと進路を変え、平潟湾を横切って野島公園駅へと到着します。

平潟湾を走るシーサイドライン

同駅の南側には駅名の由来になっている野島公園が所在していますが、公園内には旧伊藤博文金沢別邸が保存されています。ここで初代内閣総理大臣だった伊藤博文が大日本帝国憲法を起草したとされ、つまり近代日本の出発点ともいえる場所です。

野島公園駅から海の公園南口駅に向かってシーサイドライン沿いを歩いていると、あちこちで釣りを楽しむ人を見かけます。この一帯は都会の横浜市というイメージとは異なり、金沢漁港もあって漁業が盛んな土地柄です。また、海の公園内には砂浜もあり、夏季には横浜市内では唯一の海水浴場も開設されています。

野島公園の周辺が漁港であることを感じさせる看板

さらに海の公園南口駅から八景島駅へ歩くと、右手には公園地が広がり、ジョギングなどをしている人が目立つようになります。

シーサイドラインは金沢八景駅から八景島駅までがレジャー路線といった雰囲気ですが、それは線路の東側に限った話です。線路の西側は閑静な住宅地が広がっています。

八景島駅が所在する八景島は、先述した六大事業の金沢地先埋立事業で市民の憩いの場である水辺が消失してしまったことから、行政が市⺠憩いの場を復活させるために人工島として整備したことから始まります。

人工島・八景島の玄関として機能する八景島駅

行政の整備と並行して、西武鉄道・西武不動産・プリンスホテルといった西武グループによる海洋型複合レジャー開発も進められました。埼玉県を地盤とする西武鉄道がシーサイドラインの株主に名を連ねているのは、それが理由です。

1993年にオープンした横浜・八景島シーパラダイスは、家族連れやカップルなど、県内外から多くの行楽客を集めるレジャー施設です。しかし、そのオープンは駅開業から4年ほど遅れました。

八景島シーパラダイスは西武グループが総力をあげて開発。シーサイドライン沿線の一大集客スポットになった

八景島の開発経緯を踏まえると、この4年間の遅れは仕方がないことです。しかし、沿線の活性化や街の発展などを考慮すると、やはりシーサイドラインと一体的に整備してシーサイドラインの開業と同時開園がタイミング的にベストだったような気がします。

八景島シーパラダイスのアクアミュージアムをバックに走るシーサイドライン

八景島を過ぎると工場地帯に

八景島駅を過ぎると、シーサイドラインの車窓は工場地帯へと変わっていきます。ここからが、まさにシーサイドラインの正念場とも言える区間です。

市大医学部駅は駅名のまま横浜市立大学の医学部の最寄駅ですが、同駅周辺には工場が点在しています。これらの工場敷地内に立ち入ることはできませんが、シーサイドラインの沿線から遠目に見ても大規模工場であることがわかります。工場地帯に入ると、周辺の道路は大型トラックが増えていき、それに反比例するかのようにカフェやレストランといった店が見当たらなくなっていきます。

金沢地先埋立事業で造成された広大な工場地帯には、あちこちに案内看板が立つ。そうした様子からも大規模な工場地帯であることを実感する

ただ、歩いていると工場地帯ながらも公園や緑地などが多いことに気付きます。金沢地先埋立事業では、地域の環境を意識して公園や緑地を意識的に配置しました。それが今でも受け継がれているのです。

八景島駅からは延々と工場地帯が続きます。沿線を歩いていても、芒洋とした工場風景が広がりますが、産業振興センター駅まで来ると、横浜テクノタワーホテルといった商業施設も増えてきます。それでも工場地帯といった雰囲気は変わりません。

芒洋とした工場地帯を走るシーサイドライン
工場地帯の一画にそびえる横浜金沢ハイテクセンターの高層ビル

そして、幸浦駅を通過したあたりから街の雰囲気は少しずつ住宅街へと変わっていきます。

並木中央駅が見えてくると、右手にはシーサイドラインの本社や車庫が姿を現わします。しかし、車庫はフェンスと敷地内に植えられた木々があるので、内部の様子を窺うことはできません。

並木中央駅の右手に見えるのがシーサイドラインの本社兼車庫

並木中央駅は高架駅になっているので、駅の階段から車庫内部をわずかに覗くことはできますが、車庫全体を見渡すことはできません。そのため、鉄道車両がズラリと並ぶ風景は目にできず、逆に荒涼とした雰囲気だけを感じます。

駅の自由通路を歩いて、車庫の反対側に出てみましょう。並木中央駅の西側は金沢地先埋立事業の一環で造成された金沢シーサイドタウンが広がっています。金沢シーサイドタウンは職住近接を目指したニュータウンです。並木中央駅と、その次の並木北駅の西側には大規模な団地が建設され、今でも住棟が立ち並んでいます。

並木中央駅から見た金沢シーサイドタウンの住棟

シーサイドラインのほか、金沢区内には京急線も走っています。京急は1960年代後半から1970年代にかけて沿線開発を進めましたが、とりわけ住宅開発に関しては戸建住宅に力を入れました。対して、シーサイドラインの沿線は埋立地を大規模開発したので集合住宅をメインとした住宅地になっています。

幸浦駅から北の区間は、シーサイドラインに沿って側道が整備されています。近隣住民が、その側道で散歩やジョギングをしている姿も。その側道を歩いていると、シーサイドラインの車両が頻繁に通り過ぎていきます。

シーサイドラインは全線が高架線のため、歩行者の目線の高さで車両を見られる区間は少ししかありません。同区間は、シーサイドラインを歩行者目線で見られるスポットです。

鳥浜駅を過ぎると集客施設や高層マンションに出会う

そして、鳥浜駅を過ぎたあたりから少しずつニュータウン然とした街並みから変わり、新しく建て替わった高層マンションなどが目立ち始めます。

鳥浜駅の近くにある歩道橋から見るシーサイドライン

鳥浜駅の次の駅となる南部市場駅には、目の前にブランチ横浜南部市場が立地しています。同地は2015年まで横浜市が運営する中央卸売市場南部市場でしたが、2019年に民営化。中央卸売市場時代は一部の関係者のみが買い物できる場所でしたが、民営化によって広く開放されてショッピングセンターのような集客施設へと生まれ変わっています。

2019年に民営化してブランチ横浜南部市場という集客スポットに姿を変え、今では家族連れなどが多く来場する

近隣には三井アウトレットパーク横浜ベイサイドといった大型商業施設もありますが、ブランチ横浜南部市場は駅に隣接しているので、シーサイドラインを使って気軽に足を運ぶことができます。ブランチ横浜南部市場が誕生したことで、今後はシーサイドライン沿線の活性化が期待されています。

南部市場駅を過ぎると、残すは北端の新杉田駅です。新杉田駅はシーサイドラインとJR根岸線の乗換駅で、駅にはビーンズ新杉田という商業施設も併設されています。新杉田駅はJR側がにぎわっているものの、シーサイドライン側は寂しい雰囲気でした。

シーサイドラインの新杉田駅。駅前にはバスロータリーが併設され、JRの駅とも直結しているが、どことなく寂しい雰囲気
JR新杉田駅は駅ビルが併設され、買い物客などでにぎわう

今回はシーサイドライン全線を踏破しました。11kmに満たない路線で、ゆっくり歩いても半日で踏破できる距離です。そんな短い路線ですが、実際に歩いてみると多面的な顔を持つ鉄道路線であることを実感します。

筆者は、これまでにも何度かシーサイドラインの沿線を取材で訪問したことがありますが、足を運ぶたびに新たな一面を発見します。それほど多彩な顔を持つシーサイドラインなので、その特徴を一言で表現することは難しく、あえて表現するなら「戦後の横浜が歩んできた歴史が凝縮されている路線」といえるのかもしれません。

小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。