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「舞浜」の由来はマイアミではない  浦安市史を正したディズニー誘致立役者の思い

1985年に東京ディズニーランドが開園した後も、舞浜駅一帯はディズニリゾートして開発が続いている

今年、東京ディズニーランドは開園40年を迎えた。ディズニーランドは千葉県浦安市舞浜に所在する。開園は1983年4月で、1988年には玄関駅となる舞浜駅が開業。説明するまでもなく、舞浜という地名がそのまま駅名に採用された。

舞浜はもともと埋立地だったため、地名は存在しなかった。しかし、埋立地ができると住所が必要になる。こうした経緯から舞浜という地名が考案されるわけだが、長らく舞浜の由来は「ディズニーランドが所在するマイアミのマイ(舞)とアメリカ西海岸を想起させるビーチ(浜)を合成して舞浜とした」と語られてきた。このマイアミビーチ説は浦安市が公式に編纂している市史にも掲載されていたため、ガイドブックなどにも引用されることが多く、時間とともに定説化した。

そのマイアミビーチ説に異を唱えたのが、2013年に浦安青年会議所の理事長を務めた高梨健太郎さんだ。なぜ、高梨さんはマイアミ説に異を唱えたのか? その経緯を高梨さんに聞いた。

浦安で生まれ育った高梨健太郎さん。青年会議所の理事長も務めた

マイアミ説が誤りであることをディズニーランド開園の立役者から聞く

――高梨さんは、浦安市が説明していた舞浜の由来が間違っていると指摘し続けてきました。由来が間違っていると気づいたのは、いつからなのでしょうか?

高梨氏:私は浦安で生まれ、浦安で育ちました。父の代から浦安で協同住宅という不動産会社を40年経営し、東日本大震災で不動産事業が危険な状態まで追い込まれたときには新たにコインランドリー事業を興し、浦安に住み浦安で働くことを誇りにしています。

私は2013年1月1日から2013年12月末まで青年会議所の理事長を務めましたが、そのときまで私も浦安市が説明していた舞浜の由来を信じていました。

しかし、理事長在任中に堀貞一郎さんと出会い、堀さんと交流を深めていくうちに浦安市が説明していたマイアミビーチ説が誤っていることを教えてもらったのです。

――堀貞一郎さんとは、一体どんな方なのでしょうか?

高梨氏:堀さんは電通の前身である日本電報通信社に入社して、テレビやイベントのプロデューサーを務めた方です。その後、堀さんは三井不動産に移籍し、そこで東京ディズニーランドの誘致を担当しました。ディズニーランドを誘致するためのプレゼンは1日目が三菱、2日目が三井の番でした。堀さんは三井不動産の立場からプレゼンしたわけですが、東京・日比谷の帝国ホテルで開催し、通常なら会場が帝国ホテルですからそのままホテルで豪華な食事をしながらプレゼンをします。

ところが、堀さんはディズニーの関係者をバスに乗車させて、その車中で弁当を食べさせるというプレゼンをしたんです。その真意は、食べている最中に浦安に着いてしまうということで、浦安が東京から距離が近いことをアピールするとともに実体験してもらうためです。

当時、浦安町役場は東西線の浦安駅の近くにありました。そこに到着した一向を出迎えたのが、町長と星条旗を持った婦人会の方々です。地元がディズニーランド開園を歓迎しているという光景を見せる演出をしたそうです。こうした演出力が誘致成功の要因のひとつだったとお聞きしました。

そして、ディズニーランドの誘致が決定してからは、ディズニーランドのプロデューサーを務めました。堀さんは開園を見届けて三井不動産を退職します。

私が堀さんに初めてお会いしたのは、2013年の5月です。その年は、浦安青年会議のメンバーを日本青年会議所の副会頭として出向させていて、あちこちに挨拶へ出向く機会が多くありました。

その副会頭から「一緒に東京会議所の例会へ行かないか?」と誘われました。その例会で堀さんは講演をしたのです。講演後、私たちは控室へあいさつに伺い、浦安青年会議所の名刺を渡しました。そうしたら、「ここで、浦安青年会議所の理事長に会えるなんて、とても嬉しいです」と言っていただけたことを覚えています。堀さんと私では、親子ほど年齢が離れています。堀さんは青年会議所の先輩で、雲の上のような存在です。なので、名刺を渡したときに堀さんが喜んでくださったことに驚きました。

堀さんは2014年2月に胃がんで亡くなられるのですが、今から考えれば、そのときすでに医者から余命について宣告されていたのではと思います。だから、浦安で何かしたいという気持ちや熱意が溢れているように感じられたのだと思っています。

ちなみに、そのとき名刺交換をしたんですが、堀さんの名刺には住所しか記載されていなかったので、私は直筆でお礼の手紙をしたためました。その返信はメールでした。スピードや効率を求める世界に身を置いた大先輩に一本取られた気持ちと、距離の近さを感じて楽しくなりました。

――堀さんはディズニーランド開園の立役者です。退職後もディズニーランドがある浦安という街にも強い思い入れがあったことが話から伝わってきます。

高梨氏:そこから堀さんと私の交流が始まるわけですが、青年会議所の理事長は任期が1年しかありません。しかも、青年会議所は5月から6月頃に翌年の理事長が内定して、8月から9月に準備委員会が立ち上がります。そして1月から組織がガラっと変わるのです。

そのため、堀さんと私が知り合ってからすぐに、翌年の青年会議所のメンバーが決まっています。しかし、後任に思いを引き継ぎたいと考え、堀さんに講演をお願いしたのです。

堀さんの講演会は9月6日に新浦安駅前のホテルで食事をしながら話を聞くというスタイルで実施しました。

当日、その講演会前の控え室で、堀さんが「これを渡しておきたい」と私に原稿を手渡してきました。これから堀さんが講演をするのに、なぜ私に原稿を渡すんだろうと不思議に思っていたら、「もしかしたら、講演中に倒れるかもしれない。倒れてしまったら、続きは高梨さんに読んでほしい」と懇願されたのです。

そのとき、私は堀さんが胃がんを患っていることを知りませんでしたから、「そんな倒れるなんてことはないですよ」と言ったのですが、控え室で待っている間に堀さんの顔色がどんどん変わっていきました。そしてついに、動けなくなってしまったのです。

結局、講演会は私が堀さんの準備した原稿を代読することになりました。代読を始めて10分ぐらい経過した時でしょうか、堀さんは体調が少し戻ったようで会場の中を覗きにきたんです。それで、若い青年会議所の面々を見て、とたんに元気になりました。そこからは私は代読を止め、堀さんが原稿を見ることなく話し始めました。

講演会では、ディズニーランドを誘致した話は出てきましたが舞浜の由来には触れませんでした。その後も堀さんと私の交流は続くのですが、会うたびに舞浜の由来が間違って伝わっていると話し、残念がっていました。

堀貞一郎さん(右)は日本国内にディズニーを誘致した立役者だった(高梨さん提供)

地名に込められた「晴れがましい舞を舞えるような浜にしたい」という思い

――堀さんとの出会いは高梨さんにとって大きなターニングポイントだったわけですが、浦安市にとっても、そしてオリエンタルランドやディズニーランドにとっても重要な転換点だったんですね。

高梨氏:1983年にディズニーランドがオープンするのですが、その前から浦安沖の埋立地は造成工事が始まっていました。そして、造成が完了した後はオリエンタルランドへと引き渡されることも決まっていました。

当時の熊川好生町長はその頃にはオリエンタルランドに対して「埋立地に付ける地名を考えてほしい」と要請していたのです。

熊川町長の要請を受け、オリエンタルランドの社内で地名を考える検討会が立ち上がりました。そして、社内で公募をしたのです。その結果、四季に内定しています。地名が四季に決まっていたら、当然ながら京葉線の駅名も地そのまま四季駅になった可能性は高いと考えられます。

ところが、役員会で反対が出たのです。四季を音読すると「しき」で、これは死期と誤認される恐れがある。そうした理由から、四季は取り止めになりました。そのために次の案を考えたわけですが、そこで出てきたのが舞浜です。

舞浜は、1940年の皇紀2600年祭のときに作舞された浦安の舞が由来です。そもそも浦安という地名は明治時代に堀江村・猫実村・当代島村の3村が合併した際に創作されました。浦安という語は、日本の雅称です。だから皇紀2600年祭のときに作舞された浦安の舞は、とても晴れがましい舞ということになります。そんな舞を舞えるような浜にしたい。そこから舞浜と名づけられたのです。

――それまでの『浦安市史』は、舞浜はアメリカのマイアミビーチから命名されたと説明していました。それが、1985年に発行された市史から舞浜の由来が削除されました。

高梨氏:堀さんは私に会うたびに「舞浜の由来は、マイアミビーチではなく浦安の舞です」と繰り返し話してくださいました。私は「舞浜の由来を浦安の舞だと伝えてほしい」という堀さんの言葉を遺言のように受け止めています。だから堀さんが亡くなった後、舞浜の由来を正しく伝えていく活動を始めました。

機会があるごとに舞浜の由来は浦安の舞だと繰り返し主張してきましたが、一人の力ではどうにもなりません。それこそ熊川市長の後任となった松崎秀樹市長へ直々に言ったこともありますが、「でも、記録はないよね」と返されてしまうのがオチでした。しかし、めげずに市議会などにも掛け合ってきました。

活動を続けていたある日、当時浦安市議会議長の西川嘉純さんから浦安市市史の編纂をするという話を聞きました。西川さんは、私が青年会議所の理事長だったときの副理事長で普段から懇意にしており、私の舞浜という地名についての思いも知っています。私は「舞浜の由来についてこの機会に市の資料をしっかり調べてほしい」と改めて伝えました。

実は、私はウィキペディアを修正したこともあります。しかし、出典がないことを理由に元に戻されてしまうんです。市史が変わらない限り市のホームページは変わりません。ホームページが変わらないとウィキペディアは変わらないし、市販されている雑誌などの記述も変わりません。

だから、市史の記述はとても重要です。とはいえ、市史は頻繁に編纂されるものではありません。いいタイミングでした。

舞浜駅から東京ディズニーリゾートをぐるりと周回するディズニーリゾートライン

根気強く活動する中で発見された浦安町議会の議事録

――2012年に発行された『オリエンタルランド50年史』という社史にも、舞浜という地名がマイアミビーチから命名されたという記述があります。同書は市史の記述を参考にしていると思われますが、浦安市史もオリエンタルランドの社史も同じように書いていると、マイアミビーチ説が広まってしまうのは仕方がないような気がします。それを訂正させるのは、とても根気がいる作業ですね。

高梨氏:私は2009年にオリエンタルランドのCOOに就任した上西京一郎さんとも懇意にしていて、上西さんにも舞浜の由来が間違って広まっていることを伝えたことがあります。オリエンタルランドの社長を務めた加賀美俊夫さんにお会いしたときも、その話をしました。オリエンタルランドに由来を調べていただいたくようお願いしたこともありますが、結果はわからないという回答でした。

そうこうしているときに1975年の浦安町議会で熊川町長が答弁している議事録が発見されたのです。そこには、熊川町長の「浦安の舞から命名した」という発言がありました。これにより、浦安の舞が由来であるということが裏付けられたのです。

幸いなことに、熊川町長の「浦安の舞」発言が発見されたタイミングで、浦安についてちょうどテレビの取材があり、現在の内田市長が出演して「舞浜の由来は浦安の舞である」と話したんです。それが全国に放送されたことで、世間の認識もマイアミビーチ説から浦安の舞説へと変わっていきました。

長らく浦安市は、舞浜の由来を「マイアミビーチ」としていたが、それを撤回
浦安市 地域名の由来に、前市史などの記述を改めたことが記載されている

――市はホームページで舞浜の由来を訂正しました。これまでの活動が実ったことになります。

高梨氏:これまで頑なに信じられてきたマイアミビーチ説を変える活動は、市がスタンスを改めたことでいったん完了しました。市が変更したことは大きな一歩といえるでしょう。しかし、まだマイアミビーチ説と併記されることも多いんです。だから、常に発信を続けていかなければ浸透しないと思っています。

また、市が変更したことを知らない人もたくさんいます。世間には完全に浸透していないのです。そのため、これから浸透させるための活動へとシフトしていきたいと考えています。

私は父から受け継いだ不動産事業と、自分で立ち上げたwash-plusという事業を営みながら、毎日浦安で暮らしています。

wash-plusはコインランドリーの経営とコインランドリー用のアプリ開発を手掛ける会社で、洗剤をまったく使わないで洗濯ができるというこれまでにない新しいものを生み出しました。

舞浜の由来が浦安の舞であると伝える活動をしていても、私の事業には何のプラスはありません。それでも、浦安という街に光を当て新しい価値を生み出してくださった方のひとりである堀さんに恩返しをしたいという思いは尽きません。これからも浦安を愛するものとして地道に活動を続けていきたいと思っています。

自身の事業とは関係がない舞浜の由来を正す活動は、堀さんへの恩返しと語る高梨さん。高梨さんが手にしているのは、堀さんの陶芸作品。堀さんは陶芸家でもあり、その作品は没後にチャリティーに出され、売上は若者を応援するための資金に充てがわれた
小川 裕夫

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経て、フリーランスに転身。専門分野は、地方自治・都市計画・鉄道など。主な著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『東京王』(ぶんか社)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された東京の謎』(彩図社文庫)など。