西田宗千佳のイマトミライ

第104回

ロスレス・空間オーディオに対応した「Apple Music」から見えるもの

6月8日から、アップルは同社の音楽配信サービス「Apple Music」で、ロスレス形式およびDolby Atmos形式での「空間オーディオ」の配信をスタートした。

Apple Musicロスレス配信開始。ロスレスとは? iPhoneで聴く方法

価格は月額980円(学生は480円)と据え置き。現状はまだロスレスでない楽曲も多いが、アップルは最終的には全ての楽曲をロスレス形式で配信し、さらに一部楽曲を空間オーディオ対応とする……という形を採った。

それに合わせるように、Amazonは自社のハイレゾ・ロスレス音楽配信サービス「Amazon Music HD」の価格を改定した。従来、このサービスは同社の「Amazon Music Unlimited」(月額980円、Amazon Prime加入者は780円)の付加サービスであり、追加で1,000円した月額1,980円で展開されていたが、その追加分がなくなり、実質980円に値下げした。こちらでも「空間オーディオ」に対応する。

Amazon Music HD、月額980円に値下げ。ロスレスや3Dオーディオ

こうした動きはどういう意味を持っているのだろうか? また、ヘッドフォンなどの市場にはどのような影響を与えるのだろうか?

今回はその点を考察してみよう。

ハイレゾ・オーディオとはなにか

まず、音楽配信に詳しくない人向けに、配信形式について一応おさらいしておこう。

一般的な配信では、CDクオリティの音楽を、いくつかの圧縮形式を使ってデータ化して配信している。現状だと、AAC形式で64Kbpsから320Kbps程度まで、いくつかのデータサイズを使って配信しているサービスが多い。

圧縮形式とはいえ、聴感上CDとの差は大きなものではない。とはいえ、圧縮している以上、まったくの劣化もないか、というとそうではない。高品質なデジタル・アナログ回路やヘッドフォン、スピーカーなどを介して聞くことで、その差を感じることができる。圧縮による音質劣化を伴っていないデータによる配信が「ロスレス配信」である。

さらに、音楽データそのものをCD音質(44.1kHz/16bit)を超える、96kHz/24bitなどの精度で記録・提供しているものが「ハイレゾ」だ。

Apple Musicより。ハイレゾロスレスの楽曲はビットレート・量子化レートの両方がCDより高い

すなわち、ロスレス=ハイレゾではないが、ハイレゾの場合にはほとんどがロスレスでの配信となっている。

要は楽曲の音質と、それを支えるファイル形式の違いを表したものと言っていい。

Apple Musicの場合、従来通りロスレスでないデータ(AAC/256kbps)は3分の楽曲で6MBになる。それに対してロスレスは36MB(Appleの表現では48kHz/24bit)、ハイレゾかつロスレスである「ハイレゾロスレス」(192kHz/24bit)は最大145MB程度になる。サイズの違いは明白だ。

Apple Musicの設定より。ロスレス・ハイレゾロスレスになるとデータサイズは大きくなるため、自分で切り替えて使うようになっている

アップルはロスレス・ハイレゾを「同額」で提供

アップルの発表はある意味驚きであり、インパクトがあった。それは、Amazonが急遽価格を下げて対抗してきたことからもわかる。

ロスレスやハイレゾが生まれて以降、この種のフォーマットは「高付加価値」に位置付けられてきた。日本ではなかなか音楽配信が定着せず、マニアがハイレゾを使うようになってからストリーミング形式が定着したが、世界的に見れば「圧縮形式」でのダウンロード販売がCDを駆逐し、ストリーミングが生まれ始めると同時に、差別化要因としてハイレゾ・ロスレスが広がった部分がある。

CD以上のクオリティが求められるのはある意味必然なのだが、CDから配信になることで1曲・1再生あたりの収益は下がっていたため、高付加価値な音源はより高く売りたい……という意識が音楽業界側にはあった。それは自然なことであり、ここまでは音楽ファンも許容していた部分がある。サブスクリプション型が定着して以降も、DeezerやAmazon Music HD、そして日本でもmora qualitasなどの「高めの料金でハイレゾ・ロスレスを配信する」サービスが生まれた。

そこにアップルが「ロスレス・ハイレゾを付加価値としない」価格帯を打ち出してきたのだから、他社への影響は小さなもので収まるはずがない。

ただしアップルは、ロスレスやハイレゾを「そこまで強い付加価値とは思っていない」ようだ。

理由は2つある。

1つは、現状のiPhoneは、ハイレゾを楽しむには向いていないこと。ハイレゾの価値を活かすには外付けのDACやヘッドフォン、スピーカーが必要になる。特にヘッドフォンについては、自社がBluetoothでのワイヤレスヘッドフォンを推していることもあり、完全な「ロスレス」を楽しむことができない。他社製品をiPhoneに取り付けてまで聞く人が広がる、とは思っていないだろう。

そして、2つ目の理由は、iPhoneでハイレゾ・ロスレスを重視してこなかったことにもつながる。前出のように「良い環境が整っていないと差が分かりづらい」のだ。静かな環境で、良いハードウエアを揃えれば魅力的な音になる。だが、移動中にラフに聞く場合、ハイレゾ・ロスレスである価値は生まれにくい。そしてここが重要なのだが、オーディオファンでない限り、必要な環境はなかなか用意してくれないものだ。

これまでアップルは、「より高音質で聞きたい」と考えている人に対応できていなかった。だが、それを高付加価値にするよりは、「基本を持ち上げる」ほうを選んだことになる。

順次全てのデータをロスレスに置き換えていき、「良い環境を用意できる人には、アーティストが望む限り良いものを、そこまでの環境がない人には聞き分けられる範囲で最高のものを」という発想で楽曲を提供することになった。

他の事業者との差別化を狙うためにも、「もはやロスレスは基本である」という路線に入った……と言ってもいいだろう。そうなると、Amazonとしてはアップルを追いかけざるを得ない。

ストリーミング・ミュージックでは世界最大手であるSpotifyは、これまでハイレゾ・ロスレスを手掛けてこなかったが、今年2月、2021年後半に「Spotify HiFi」をスタートするとアナウンスしている。価格を含めたサービス形態は未公開だが、アップルの方針は影響を与えるだろう。もしかするとそれは因果関係が逆で、「Spotifyより先に、ロスレスを高付加価値としないことを発表した」のかもしれない。もちろん、想像にすぎないことだが。

アップルがロスレスより「空間オーディオ」を推す理由

アップルがハイレゾ・ロスレスをそこまで重視していないことは、サービスのアップデートに関する発表からも見えてくる。

彼らがアピールしたのはあくまで「空間オーディオ」だったからだ。

アップルはApple Music内に「空間オーディオ」をアピールする

ハイレゾであろうがロスレスであろうが、基本的に左右2つのチャンネルをもつ「ステレオ」音源だ。それに対して空間オーディオは、自分を中心とした仮想的な空間を想定してその中に立体的に音源を配置し、中央にいる自分にどのように聞こえるのかを演算によって再現するものである。結果として、音が上下左右前後と、広い領域から聞こえるようになる。

元々は映画やゲームのために考えられたものだが、音が動き回る様子を再現するだけでなく、音がより広い場所で聞こえるように感じさせることができるので、ライブ音源から利用が始まっていた。

空間オーディオ用のフォーマットとしては、映画から利用が拡大した「Dolby Atmos」と、ソニーなどが音頭をとってMPEGで標準規格化した「MPEG-H 3D Audio」がある。後者を使ったのがソニーの「360 Reality Audio」で、アップルはDolby Atomosを、AmazonはDolby AtmosとMPEG-H 3D Audioの両方を採用している。

この辺はもう少し細かい事情があるが、フォーマットなどの状況について知りたい場合には、筆者が書いた以下の記事を読んでいただけるとありがたい。

Apple Musicはなぜ「空間オーディオ」「ロスレス」に対応したのか

4月16日に日本サービス開始、「360 Reality Audio」の本質とはなにか

ソニーにしろアップルにしろ、空間オーディオを推している理由はシンプルだ。音の広がりという「体験」が軸になっている技術なので、より誰にでもわかりやすい特徴を持っているからだ。

ハイレゾ・ロスレスは、ハイクオリティな機器を外付けにし、比較的静かな環境で楽しむという繊細な部分がある。それに対して空間オーディオはそこまで条件を整えなければいけないものでもない。

ただし、なにもしなくていいわけではない。個人の「聞こえ方」への最適化や、スピーカー・ヘッドフォンなどの機器の特性に合わせた最適化をした方が、立体感を含めた聞こえ方が増す傾向にあるからだ。

アップルの場合、標準設定では、空間オーディオはAirPods Pro/AirPods Maxなどの自社ヘッドフォンか、iPhone/iPad/MacBookの内蔵スピーカーなどで聞いた時に限り有効になる設定だ。理由は、それらならば音響特性がよく分かっていて、空間オーディオへの最適化が行ないやすいからだ。設定を「常にオン」に変えることで他社ヘッドフォンでも楽しめるが、やはりAirPods Pro/AirPods Maxで聴く場合には劣る。さらに、これらのヘッドフォンにあるモーションセンサーを使い、頭の方向を認識して音の出方を最適化することも行なう。

アップルのヘッドフォン以外でDolby Atmosをオンにするには、「常時オン」に設定を切り替える必要がある。そうすると「すべてのスピーカーで有効とは限らない」という警告が出る

ソニーの場合、特になにもしないとどのヘッドフォンでも、誰の耳にも「それなりの立体感に聞こえる」標準設定が提供されるが、ソニーやソニーとライセンスを交わしたメーカーのヘッドフォンでは、耳の写真を撮った上で「自分への聞こえ方」の推定をし、さらにヘッドフォンそれぞれへの最適化を行なう。結果としてより最適な立体感が得られるようになっており、この「差別化が行なえること」が自社ヘッドフォンを選んでもらう理由の一つになる……という考え方になっている。

どちらの企業にしても「空間オーディオが新しい体験である」ことをウリとしつつ、「自社製品を選んでくれるとより良くなる」というアピールなのである。

ただ、自社で音楽サービスを提供せず、他社にライセンスすることでビジネスをするソニーと、自社で配信を持っているアップルとでは、わかりやすさ・インパクトの両面でアップルに軍配が上がる。

「半導体から作る」差別化すら必要になるヘッドフォン市場

ここで問題となるのは、空間オーディオについて2つのフォーマットが生まれていることだ。フォーマットが生まれるということになると、どうしても「フォーマット戦争」という言葉が思い浮かぶ。

だが筆者の見るところ、フォーマット戦争は起こりそうにない。結局双方を採用するのでは……というのが筆者の見立てだ。

取材した結果、アップルは空間オーディオについて、ソニーとも話し合いを持っていることが分かっている。彼らとしてもDolby Atmosにこだわる理由はなく、採用の理由も「すでに楽曲が多い」「楽曲オーサリングの環境が整っている」という点にある。ソニー自身が音楽レーベルとして有力であり、音楽制作環境も持っている。敵にする必要はないわけだ。

Amazonは先行して空間オーディオを提供しているが、Dolby AtmosとMPEG-H 3D Audioの両方を採用している。

そもそもネットワークサービスになって以降フォーマットの併存は容易であるため、分断を進める意味もないわけだ。

ポイントは前出のように「このヘッドフォンを使うと快適である」という部分になる。

そうしたことができるヘッドフォンメーカーは、現実問題として限られている。「音が出ればいい」という話ではなく、トータルでのシステム開発能力が必須になるからだ。

今回のアップルの施策は、自社デバイスと連携する有料サービスの魅力を高めることであると同時に、ヘッドフォンというとても有望な市場へのアピールでもある。ソニーにしても同様だ。

アップルはAirPodsで「H1」などの自社設計半導体を使っていて、それがノイズキャンセルや空間オーディオ、外音取り込みなどの付加価値実現に使われている。ソニーも、6月9日に発表した「WF-1000XM4」に、オリジナル設計の統合型プロセッサー「V1」を搭載した。

WF-1000XM4

ソニー、小さくなった完全ワイヤレス「WF-1000XM4」

クアルコムやMediaTekなど、ヘッドフォン向けの半導体を作っているメーカーは他にもある。だが、それらを採用するだけの企業と、自分で開発する、もしくは彼らと共同開発して半導体を先行導入するメーカーとでは、高付加価値化していくオーディオへの対応力が変わってくる。

ヘッドフォンは参入企業数も多く、価格競争が激しい割に、差別化も難しい。ブランド力が重要、といっても安泰なわけではない。5月にゼンハイザーがスイスのSonovaにコンシューマ事業を売却したのは、彼らの強みが「プロ向けのハイクオリティ市場」であり、数万円以下でコンシューマ向けに価値を競い合うところではないからだ。

ゼンハイザーのコンシューマ事業、スイスのSonovaが買収へ

そういう視点で考えると、今回の展開がまた違った流れに見えてこないだろうか。

筆者としては1つ、気になる点は残っている。

それは、ハイレゾや空間オーディオで単価を上げ、差別化を図った音楽業界が、また差別化要因を失った、ということだ。楽曲を増やしてもらうにはそこに利益が伴わないといけない。特に空間オーディオではそうだ。そこに「音楽業界側のやる気を拡大するもの」はあるのだろうか。

楽曲の再生量が増え、利用者が増えていくなら、それはそれでプラスだろうと思う。では、ハイレゾや空間オーディオはそこでどのくらいの影響を与えるだろうか? アップルが体験を軸にした空間オーディオをアピールするのは、より再生を促す効果が高いと思われているからだろう。

その辺のバランスがどうなるのかは、もう少し音楽業界からの声が聞こえてこないと明確にはならないかもしれない。

西田 宗千佳

1971年福井県生まれ。フリージャーナリスト。得意ジャンルは、パソコン・デジタルAV・家電、そしてネットワーク関連など「電気かデータが流れるもの全般」。主に、取材記事と個人向け解説記事を担当。朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞、週刊朝日、AERA、週刊東洋経済、GetNavi、デジモノステーションなどに寄稿する他、テレビ番組・雑誌などの監修も手がける。
 近著に、「顧客を売り場へ直送する」「漂流するソニーのDNAプレイステーションで世界と戦った男たち」(講談社)、「電子書籍革命の真実未来の本 本のミライ」(エンターブレイン)、「ソニーとアップル」(朝日新聞出版)、「スマートテレビ」(KADOKAWA)などがある。
 メールマガジン「小寺・西田の『マンデーランチビュッフェ』」を小寺信良氏と共同で配信中。 Twitterは@mnishi41