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国宝11体の仏像が東京国立博物館に! 特別展「中尊寺金色堂」を見る

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」が1月23日に開幕。岩手県の平泉にある中尊寺金色堂の、堂内中央の須弥壇に安置されている国宝の仏像11体が、一堂に展示されている。寺外で揃って公開されるのは初めてのことだ。

展覧会名:建立900年 特別展「中尊寺金色堂」

会期:2024年1月23日(火)〜4月14日 (日)
会場:東京国立博物館 本館特別5室
入場料:一般1,600円/大学生900円/高校生600円
※会期中 一部作品の展示替えを行ないます(仏像の展示替えはありません)

なお展示会場内は、金色堂模型のみが撮影可で、そのほかは撮影不可。以下は主催者の許可を得て撮影したもの。

縮尺5分の1の《金色堂模型》昭和時代(中尊寺蔵)

金色堂・中央壇の国宝11体の仏像が間近で見られる!

会場に入ると、金色堂内部の様子を8KCGで原寸大に再現された映像が、視界いっぱいに広がる。この映像が映し出される巨大ディスプレイの後ろに、実際の本尊ほかの諸仏像が並んでいるという演出だ。

金色堂が原寸大で再現された8KCG:(C)NHK/東京国立博物館/文化財活用センター/中尊寺

大型ディスプレイの裏側へ進むと、まるで宇宙を再現したかのような、金色堂内部の世界観が広がっている。

展示風景

展示されているのは、金色堂内に3つある須弥壇のうち、最も重要ともいえる中央壇に安置される仏像11体。

その中でもリーダー格なのが、展示会場でも奥に座している《阿弥陀如来坐像》。その阿弥陀如来に付き従うように《観音菩薩立像》と《勢至菩薩立像》が左右を固め、3体ずつ計6体の《地蔵菩薩立像》が控えている。さらに全体を守るかのように、立ちはだかるのが《持国天立像》と《増長天立像》だ。

《地蔵菩薩立像》が展示ケースに、3体ずつ収められている以外は、それぞれ単独の展示ケースに入れられている。しかも、どれもが正面からはもちろん、360度の全周から観覧できるのだから驚きだ。

ちなみに岩手県平泉の中尊寺金色堂は、劣化を防ぐため、金色堂全体が覆堂(おおいどう)という建築物の中にある。そして参拝者は、ガラス越しに、金色堂とその中に安置されている仏像群を見ることになる。つまり今回の展示では、平泉の現地でよりも、かなり間近で拝観できるのだ。

各像は360度の全周から拝観できる

まず最初に、《持国天立像》と《増長天立像》の今にも動き出しそうな、写実的で迫力ある表現に釘付けになるはず。一般的に、こうしたダイナミックな作風の仏像は、鎌倉時代の運慶や快慶が知られる。だが中尊寺金色堂の二天像は、彼ら慶派が活躍するよりも、数十年も前の平安時代に作られたと考えられている。

国宝《持国天立像》平安時代(中尊寺金色院蔵)
一瞬を切り取ったかのような、写実的な造形の《持国天立像》(中尊寺金色院蔵)
国宝《増長天立像》平安時代(中尊寺金色院蔵)
迫力の造形の《増長天立像》(中尊寺金色院蔵)

奥に進むと左右に3体ずつ展示されているのが、柔和な顔の《地蔵菩薩立像》=六地蔵。

頭部をやや小さくつくるプロポーションの《地蔵菩薩立像》(中尊寺金色院蔵)
《阿弥陀如来坐像》や観音菩薩と勢至菩薩の阿弥陀三尊像よりも、一世代後の造像と推定される《地蔵菩薩立像》(中尊寺金色院蔵)

さらに奥には、《阿弥陀如来坐像》、《観音菩薩立像》と《勢至菩薩立像》の阿弥陀三尊像が1体ずつケースに収められている。

3像とも頬がぷっくりと膨らんでいて、まん丸いお顔。頭部が大きめな点や、曲線で構成されるフォルムなどが特徴として挙げられる。これら共通点は、平安時代後期に活躍した仏師の定朝(じょうちょう)の作風に通じる、和様の仏像彫刻様式。一般的に「定朝様(じょうちょうよう)」と呼ばれる。

全11体の中心に配置されている《阿弥陀如来坐像》(中尊寺金色院蔵)
《観音菩薩立像》(中尊寺金色院蔵)
《観音菩薩立像》は、《阿弥陀如来坐像》の左側(観覧者から見て右側)に配置されている
同じく右側に立つのが《勢至菩薩立像》(中尊寺金色院蔵)
それぞれの仏像を、360度ぐるりと回って見られる貴重な機会

仏像以外の見どころも多い

特別展では、11体の仏像のほか中尊寺の歴史を感じさせる寺宝も展示されている。そして、その多くが国宝だ。

改めて中尊寺の金色堂は、奥州藤原氏の初代・藤原清衡(きよひら)によって建立された、東北地方現存最古の建造物。今年で天治元年(1124)の上棟から900年を迎える。

国宝《金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅》平安時代(中尊寺大長寿院蔵)
塔が描かれていると思って近づいてみると、金光明最勝王経を書写して形作っていることが分かる
導師が座る台、国宝《礼盤(らいばん)》平安時代(中尊寺金色院蔵)

「平安時代」というと、貴族が庭の池に舟を浮かべたり、恋人と歌を詠み交わしたりと、長く平和が続いたイメージがあるだろう。だが特に東北地方では、異なる様相を呈していた。

藤原清衡が生まれた1056年は、前九年の役(合戦)という長く続いた戦乱の真っ只中。同合戦は、東北の2大勢力の1つ安倍氏が、京の大和朝廷からの独立を期したことがきっかけで始まった。この頃の朝廷による東北支配は、いまだ盤石ではなかったのだ。

独立派の安倍氏側に組みした藤原清衡の父(経清)は、合戦が続く1062年に、源頼朝や義経の祖先である源頼義によって斬首。その後の1083年から始まった後三年の役(合戦)では、同じく源頼朝や義経の祖先である源義家の後援により、藤原清衡が東北全域を掌握。清衡、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)の三代、約100年続く奥州藤原氏の礎が築かれた。

そして1105年に、藤原清衡は中尊寺の造営に着手する。その趣旨は、前九年や後三年の役で亡くなった人たちの霊を、敵味方の別なく慰めるとともに、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏の教えによる平和な理想社会を建設するものだった。

(諸説あるが)そんな藤原清衡の中尊寺建立への思いが記されているのが、今展でも見られる、中尊寺の大長寿院が所蔵する重要文化財の《中尊寺建立供養願文》。中尊寺落慶(完成)時に、藤原清衡が読み上げたとも言われる願文は、「敬白 奉建立供養鎮護國家大伽藍一區事」の一文で始まり、伽藍の概要や建立の趣旨が記されている。

鎌倉時代の藤原輔方が原文を書写した、中尊寺大長寿院が所蔵する《中尊寺建立供養願文》(展示期間:1月23日〜3月3日)。3月5日からの後期展示では、南北朝時代の北畠顕家が書写した《中尊寺建立供養願文》が見られる

筆者は古文書を読めないので、中尊寺の方に教えてもらったのだが、願文の中程に以下の文章がある(一部を新字体にしている)。

(中略)懸廿釣洪鐘一口
右一音所覃 千界不限 抜苦与楽 普皆平等 官軍夷虜之死事 古来幾多 毛羽鱗介之受屠 過現無量 精魂皆去他方之界 朽骨猶為此土之塵 毎鐘聲之動地 令冤霊導浄刹矣

「右一音(いっとん)」から始まる一文に注目したい。展示風景より

同展の音声ガイドでは、この部分を以下のように現代語にしている。念のため筆者も、前述した翻刻をGoogle Bardで現代語訳してもらったところ、おおむね同じような意味だった。

「鐘の音がどこまでも響き渡る。官軍も、守り戦った我ら蝦夷の別なく、鳥や獣、魚に至るまで、命絶たれた数は計り知れない。鐘の音が大地に響くごとに、ゆえなく命を落とした人々の魂が、浄土に導かれんことを」

同願文の内容を教えてもらってから、改めて《阿弥陀如来坐像》を含む11体の仏像を見てまわった。筆者は仏教徒ではないけれど、はじめに見た時よりも、仏像の表情に身近なものに感じた。また、平和を願って藤原清衡が建てたとされる中尊寺を、20年ぶりくらいに訪ねてみたいとも思った。

建立900年 特別展「中尊寺金色堂」は、東京国立博物館の中で決して広いとは言えない本館特別5室で開催されている。ササッと巡るだけであれば15分もかからずに見て回れるだろう。だが、展示品の一つ一つが秀逸だ。じっくりと時間をかけて見ておきたい。

藤原清衡の遺骸を納めていた中央壇の《金箔押木管》(中尊寺金色院蔵)
太刀や金塊など副葬品の一部も展示されている。展示風景より