2000年のベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作品、『初恋のきた道』。これは凄い作品だ。日本公開時に大ヒットとなり、ロングラン上映されていたので御覧になった方もかなりの数いることだろう。数十年前の中国北部の田舎を舞台にした、一組の夫婦にまつわるシンプルで純粋な愛の物語なのだが、そこには現代では誰もが忘れかけている愛の姿が生き生きと描かれている。特に愛を具現化したような主人公、チャオの姿が心に焼きつく。彼女はまさに純粋な愛そのものだ。彼女が機を織るだけで涙が溢れ、餃子を抱えて走る姿に愛おしさを感じ、懸命に料理を作る姿に胸が熱くなる。忘れかけていた一途な思いをそんな日常のしぐさを通して浮き彫りにされるからだろうか。チャン・イーモウが描くその映像世界に、複雑な現代に生きる者には到底手に入れることのできない理想郷があるからだろうか。

　ストーリーがシンプルなら語り口もシンプルだ。物語に奇抜なひねりもなければ、必要以上に劇的な演出もない。ただ、恋する女性の姿をひたすら追う。それだけで、人の愛、絆、運命を表現してしまうチャン・イーモウ監督の手腕、チャン・ツィイーの演技力の賜物だろう。この映画に存在する稀有な純粋さ、つまりは人を微笑ませ、号泣させ、暖かい気持ちにさせる力はこの二人の組み合わせが生んだ奇跡と言えなくもない。その奇跡が何層もの鎧を着た現代人の心をも突き破る。男性というのは概してラブ・ストーリーを好まないものだ。甘いだけの恋愛映画を避けている男性を多く知っている。ところが、そんな彼らですらこの作品には号泣する。劇場公開時に本作を見逃した筆者に、強く観るよう勧めてくれたのも男性だったし、本作の話をするとしきりに褒め称えたのも男性だった。

　本作にラブ・シーンは一切ない。恋する二人が触れ合うシーンすらなかったように記憶している。それでも愛は確かにそこに存在していた。女が料理をする時、男が朗読をする時、そして二人が見つめ合う時に。もしかすると、これをラブ・ストーリーという枠に収めるのは間違っているかも知れない。そこには、人間の尊厳について、人間の生き方について、価値観について、あらゆる人間らしい思想、感情、生き様が織り込まれているからだ。そしてすべてを受け止め、清らかな愛に涙したとき観客は皆、「こんな愛に出会ってみたい」そう思うのである。

　中国北部、華北の村に町から20歳の若い教師、ルオがやってくる。彼に恋をした 18歳のチャオは、彼への切ない思いをなんとか伝えようと料理に恋心を託す。そんな彼女の気持ちに気づいたルオだったが、ある時、町へ帰ることを余儀なくされる。必ず戻ると言ったルオの言葉を信じ、町と村とをつなぐ一本道で、初恋を運んできた道のそばで、チャオは彼の帰りを待ち続けるのだった。

　このDVDには撮影秘話やメイキング映像、スタッフやキャストのインタビュー映像などは収録されていない。どんな特典映像がついているかは、時にDVD購入の決め手ともなり得るが、稀にそんなこととは関係なく、作品を手元にいつまでも残しておきたいという思いだけでDVDソフトを購入するがある。まさにこの作品はそんな映画のひとつだ。それは読み終わった後も本棚に残しておきたい本のような、自慢のコレクションの中に加えたいレコードのような、そんなDVDなのだ。実は筆者はこの作品のDVDを個人的に購入しているのだが、それはそんな理由からだった。

　本当に旨い豆腐には醤油などいらないのである。映画を観た人ならお分かりだろうが、この作品自体、説明を必要としない種類のものである。必要としないというよりも、むしろ裏話などは邪魔にさえなるだろう。物語の全てが完璧な形で語られているのだから。メッセージの全てが凝縮され、しっかりと伝わってくるのだとすれば、それ以上求めるものなど存在しまい。

　展開されるストーリー以外に、そしてそこから観客それぞれが感じ取ろうとするこ と以外に、チャン・イーモウ監督が伝えたいことなどないのかもしれない。むしろこ れで何も感じないなら、それはそれでよいでしょうという潔ささえ感じられる。この 荒み汚れきった世の中にあって、もう一度だけ人間存在の持つ清らかさを信じてもい いと思わせるだけの奇跡的な力を持つ作品なのだ。