こどもとIT
日本は世界の「底辺国」!?――学校でのICT機器活用を親と専門家の目線から考えるディスカッションイベント
2018年2月13日 06:00
小学生の子どもがいる読者の皆さん、お子さんが学校でどの程度パソコンやタブレット端末を使っているか知っているだろうか? 授業で先生が実物投影機やプロジェクター、電子黒板等を使用しているのを見たことがあるだろうか? そもそも教室に設置されているのかどうか把握しているだろうか?
小学校でのプログラミング教育が注目され始めているものの、実はまず、その道具でもあるICT機器の活用自体がまだまだ課題をかかえている。
そこに注目したイベント、「これでよいのか、学校でのICT活用~社会に出て必要な資質・能力とICT活用~」が、2018年1月27日に、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(東京・六本木)にて開催された。主催したのは日本教育情報化振興会の教育ICT課題対策部会で、メインの討論メンバー10名を50名ほどのオブザーバー参加者が取り囲むディスカッションイベント。討論者・参加者それぞれが「専門家として」「社会人として」「親として」の様々な視点で発言をする、とてもオープンな意見交換の場となった。
学校ICT「底辺国」としての現状
冒頭、教育ICT課題対策部会長の砂岡克也氏(富士ソフト)から、ディスカッションの前提として現状の課題が共有された。
文部科学省の調査によれば、2017年、書画カメラは1学級1台の達成率が46.2%、電子黒板は1学級1台の達成率が24.4%、教育用コンピュータは5.9人に1台で、いずれもいまだに整備中の段階だという。国際比較として、「PISA2015」(※1)の「学校で使っている機器」「学校での学習用途」「対ICT態度項目」の結果を見てみると、日本の活用の遅れは「底辺国」レベルであることが示された。
砂岡氏は、PISA2015において、いわゆる学力調査部分では日本は上位の数字が出ているため、ICT活用について注目されにくいということに触れた上で、「社会人の仕事現場でICT機器が既に当たり前に使われ、“ごくありふれた役立つツール”となっているのに対し、学校教育現場での活用がこのままで良いということにはならないだろう」と提示した。
それは単に教育現場が社会と同質であるべきという意味ではなく、次期学習指導要領で「育成を目指す資質・能力」の3つの柱として示されている「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性等」のうち、特に「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」を身につける効果的な支援ツールになりうるという点もおさえた上で、ディスカッションがスタートした。
(※1)PISA=Programme for International Student Assessment:OECD「生徒の学習到達度調査」
各自の実感から出てきた様々な「ギャップ」
ファシリテーターは山口亮氏(日本文教出版)が務め、討論メンバーからは自己紹介とともに各自の課題観が社会人/保護者双方の視点で語られた。
[討論メンバー]
・西尾琢郎(横浜市立桜台小学校 校長/民間出身校長)
・西田光昭(柏市教育委員会 教育専門アドバイザー)
・豊福晋平(国際大学グローバル・コミュニケーション・センター 准教授)
・村上祐子(東北大学大学院文学研究科・文学部 准教授)
・鈴木けんぽう(渋谷区議会議員)
・神谷加代(教育ICTライター)
・矢吹正徳(日本教育新聞社 編集局長)
・榎本松喜(シャープマーケティングジャパン 部長)
・砂岡克也(富士ソフト/教育ICT課題対策部会長)
(以上、敬称略)
早速各メンバーから「ギャップ」についての実感が次々に上げられる。例えば、「ICT活用に先進的な学校と普通の学校との格差」、「日本人大学生と留学生の機器活用の経験値と常識感の違い」、「高校入学時点での機器の習熟度の個人差」、「日常の連絡手段と学校ー保護者間の連絡手段の乖離」、「企業内業務と学校内校務の常識の違い」、「機器の整備状況と実際の活用状況の落差」等、視点は多岐にわたった。実感のこもったエピソードにうなずく参加者も多く、座のムードが和らぐ。
豊福氏は、「子どもが日常的にはタブレット端末などを使用しているのに、学校でだけは使えないこと自体がギャップだ」とし、海外視察の例として、BYOD(※2)が進むデンマークでは、小学校1年生でも9割以上がスマートフォンを所持し、子ども達が翻訳ツールを使って気軽に日本語で話しかけてきた様子を紹介した。
(※2)BYOD:Bring Your Own Device(自分の所有機器を持ち込み使用すること)
なぜ日本でICT機器活用が進まないのか?
豊福氏の話を受け、ファシリテーターの山口氏からの「スマートフォンを学校で使ってはいけないのか?」という問いかけを発端に、日本の学校でICT機器の活用が消極的なことについて意見が交わされた。
スマートフォンはそもそも、「文部科学省が2009年、携帯電話中心の時代に『学校に必要ないもの』として小中学校で原則禁止とした」(矢吹氏・西田氏)という背景がある(※3)。学校には学業に関係ないものは持ち込まないのが原則。スマートフォンは学びのツールとは定義されていないというわけだ。
高校はもう少し柔軟で、東京の都立高校では2020年に向けてBYOD方式でスマートフォンの持ち込みを進める動きがあることを取り上げ、「この取り組みがひとつのロールモデルになって小中に波及するのを期待したい」(榎本氏)という声も上がった。
もはやスマートフォンは携帯電話ではなく、タブレット端末同様に小型パソコンだ。もちろん、パーソナルな用途やエンターテイメント用途にも使えてしまうという問題がついて回るのは当然だが、既に多くの高校生が所有しているICT機器を学校現場で有効活用しようという試みが動きはじめているのは注目するべきだろう。
ただし、個人所有前提では家庭間の経済格差が大きく、負担を求めることができないという問題がある。特に小中の義務教育段階は、全ての子どもが等しい機会を得られることが前提であり、子ども同士の持ち物格差への配慮もあって、原則禁止となるのはやむをえない、という事情も各メンバーから語られた。
そういった心配のない支給型の1人1台のタブレット環境が、2017年9月に渋谷区の全小中学校で始まっている。渋谷区議の鈴木氏によれば、財源を確保してトップダウンで実現できたという。強い実行力で進められた例だ。
こうした先進事例に期待感が集まる一方で、そもそも先生自身が使い慣れていないことこそが問題だという声も多く上がった。「iPadを見て『これは何ですか?』という先生もいるのが現実」(西田氏)だという。校務でもプライベートでも、まずは先生にとって当たり前の日常ツールにすることが、この消極傾向打開の大切なスタートになりそうだ。
(※3)参考:学校における携帯電話の取扱い等について(通知)(文部科学省)(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/1234695.htm)
保護者からICT機器活用を求める声がない!?
先生や学校だけではなく、保護者の側も消極姿勢だという指摘もあった。PTAのある調査によれば、「保護者がデジタル機器の活用を求める声は高いとは言えない」(矢吹氏)というのだ。渋谷区の1人1台体制も、保護者からの声がきっかけというわけではなかったという。
これには、情報不足ゆえに保護者の認識が弱いという意見もあれば、問題意識のある親が声をあげればモンスターペアレント扱いされかねないという指摘も。一方で、保護者が自発的にICT活用に動いているという例も上がった。「学校と保護者や地域が教育に関わる様々な課題を共有し議論することが重要」(西尾氏)だが、そうした連携はまだ一部で模索されているだけの段階なのだろう。
保護者と学校間の関係性だけでなく、単に親自身が子どもと機器のつきあいに悩んでいるという側面もあるだろう。子どもがスマートフォンやタブレット端末をエンターテイメント用途ばかりにだらだらと使うことに頭を悩ませ、ゲームやテレビと同様に制限する対象にせざるをえないのがごく普通の家庭の光景だ。その日常から、学校で是非活用すべきだという大きな声は上がりにくい。
「決して子どもが遊びだけに使うわけではなく、家庭学習に有効に使っている」という事例も出れば、「有益に活用していることに親が気づいていないだけでは?」という意見もあり、その通りだと思う一方で、それだけでは済まない多くの親子のリアルな攻防を思い浮かべずにはいられない。
また、学校に届くSNSやネット利用の通達は、「使いこなす」というよりも「使うな」と言っているにように読めてしまうという指摘や、「スマートフォンの使い方は防犯教育の枠で扱われている」(村上氏)という指摘からは、危険性の啓蒙に注力することが、かえってツールの使用自体に消極的なイメージを生む可能性も見えてきた。
学校が、先生が、保護者が――というどこか一箇所の問題ではなく、総じて、「社会一般にICT活用を進めようという空気感が醸成できていない」(砂岡氏)というのが残念ながら現状なのだろう。
学校が「ガラパゴス化」してしまうのか
社会の変化に学校がついていけず、このままではガラパゴス化しかねない現状も見えてきた。
まず、「出張中に学校から自宅に電話連絡が入っても用件すら把握できない」(神谷氏)、「単身赴任なので、連絡帳を使った連絡は困難」(村上氏)という、親のライフスタイルに合わない実情が上げられた。メールやデジタルデータでの伝達が日常的な時代に「学校と保護者の間だけ」が古い連絡手段を使う状態になりつつあるというわけだ。ネット上では、学校から保護者向けに配られる大量な紙の「お手紙」が時代錯誤だと揶揄されることも多い。
親だけではない。子どもが既に創作や思考のツールとしてパソコンを使っているのに、「パソコンで完成させた作文を、学校に提出するためにわざわざ原稿用紙に書き写している」(神谷氏)というエピソードも上がった。「自由研究をデジタルデータで提出することが認められない」(同)という状況で、はたしてこの先プログラミング教育が必修化された時に、子ども達の興味の広がりに対応できるだろうか。実は緊急性の高い課題だろう。
一方、疑問を持ち、声を上げられる保護者ばかりではない。筆者の友人が子どもの通信教育を選ぶ際に、タブレットコースではなく紙のテキストコースを選択した理由を「学校では、ノートもテストも手で書かせるでしょ? そっちができないと」と言っていたのを思い出した。
親が「子どもが学校で求められることは何か、何によって評価されるか」に関心があるのは当たり前のことだ。学校が子どもに求めることは、親の意識にも強い影響力を持つ。学校側がアウトプットの型を限定することで、子どもや保護者のICT活用の意識にブレーキをかけている可能性を忘れてはいけないだろう。
思考やアウトプットの手段として使いこなすことが必要
現役の大学生と接している豊福氏と村上氏からは、「今の大学生は文章が書けず、レポートを書かせても感想文になってしまう、レポートの書き方から教えなければいけない」という切実な声も聞こえた。
「構造化された長い文章を作るためのコンピュータは有効だが、そのスキルが身についていない」(豊福氏)、「今の時代は高速で文章を大量に読んで要点をとらえる力、情報を読み取る力が必要」(村上氏)という指摘には、ヒヤリとするものを感じた。
ツールの操作に慣れるのは当然の入り口で、思考やアウトプットの手段として使いこなすことこそがICT機器活用の大前提である、ということを改めて確認する必要があるだろう。今や幼児だってスマートフォンやスマートスピーカーに話しかけるだけで検索できるのだ。機器は発達するので、操作を学ぶ手間は今後どんどん減る。
確実に信頼できる10冊の本から正しい答えを見つけ出すのが今までの学習だとするなら、「真偽は定かではないが自由にアクセスできる大量な情報の海」の中から、確かな信頼できる情報を自分の力で探し出し、問題を解決できることが、これからの子どもたちに必要なことだろう。
ICT機器活用の短期的な効果だけを見ないこと
まとめとして豊福氏は、「役所からはICT機器活用の教育効果を求められることが多いが、短期的な学力やスキルにフォーカスしては捉えきれない」とし、「子どもたちが日常で機器を使う生活の文脈と学びとをつなぐ必要があるという視点、デジタル機器を用いることで、単位時間の扱い情報量が10倍100倍になる現象をいかにメリットに転換するかという視点で考えるとよいだろう」と提示した。
新しいことに試行錯誤はつきものだ。1人1台の渋谷区の現状について鈴木氏が、「いま一番学校現場は混乱しているところで、パラダイスというわけではない」と表現したのは印象的だった。予測と違う展開も起きるし、柔軟性も必要だ。制限を強めに設定していた当初よりも、今はどんどん使ってみようという方針に変化しつつあるエピソードは興味深い。
もちろん、混乱なく準備万端で導入できたら理想的だろう。ただ、機器は猛スピードで発達し、私たちの生活を現在進行形で変化させている。先生も親も経験不足で迷いがあるのは仕方がない。むしろ、すでに機器を使うことが当たり前になっている子どもたちを巻き込んで、使い方を現場で試行錯誤するくらいの勢いと柔軟性で挑んでもよいのではないだろうかと感じさせられた。
豊福氏は、北欧の視察に訪れた学校で、「日本は技術大国じゃないか。われわれのような小国に調べに来て何か役立つことでもあるのか?」と聞かれたという。外国から見た日本は、「そんなに情報技術に恵まれているのに、なんでわざわざ機器を使わないで足踏みしているの?」と不思議にすら思われている可能性があることに気づくと、もっとシンプルな危機感が持てそうだ。
学校だけが取り残されてしまってはまずい。これからの社会を作っていくのは子ども達なのだから。