第5回 笹と赤錆がつなぐ風景
その県道を車で走ると一瞬視界に飛び込んでくる小さな公園が、いつも気になっていた。付近に駐車できるスペースが見当たらず、これまで横目で一瞥して過ぎるだけだったが、ついに先日、少し離れた場所に車を停めて足を運んでみた。
本当に小さな、庭のような公園だった。誰にも遊ばれることなく季節を数えてきたのだろう、草が背を伸ばしたまま枯れていた。小さな螺旋の滑り台と箱ブランコはすっかり錆だらけで、冬枯れした笹の植え込みは、大型トラックが通るたびに乾いた音を鳴らした。
カメラ越しに箱ブランコを眺めていたら、私は自分がこの公園の何に引き寄せられたのかわかった。笹と赤錆だ。いずれも幼い頃の記憶の風景にあるものだ。
——写真は、写真を撮った人の幼児体験の記憶と結びつくことが多い。
以前、写真家の北井一夫さんからそんな話をお聞きし、妙に納得したことを思い出した。
私が乳児の頃より3年ほどを過ごした町は、海に面した小さな田舎町だった。自宅は海原を望む高台にあり、人家のまばらな一帯には笹薮や茅の茂みがいくつもあった。海からの風が潮を運び、ガードレール、バス停の標識、広場の鉄棒といった屋外の金属は、いつでも錆にまみれていた。
子どもの視点や関心のあり方は、レンズになぞらえれば広角系よりもマクロレンズに近いとつねづね思う。広く風景を眺めるよりは、手近にあるものをじっくりと観察する。自分自身を振り返っても、記憶の風景は雄大な水平線ではなく、笹と赤錆のように視界の中の一部だったりする。また、それは視覚的な存在にとどまらず、五感で確かめられるものだ。笹をかき分ける感触も手に残る錆の匂いも、色かたちとともに記憶に刻まれている。
誰もが持っている、記憶の風景。その入口となる光景は人それぞれ違う。山から湧きたつ雲も、商店街の万国旗も、路地裏に並ぶ植木鉢も、どこかで誰かの記憶とつながっている。そして、それぞれの光景が、今まさに幼年時代を生きている子どもたちの中に永く遺り続けるかもしれないことを思うと、あらゆる光景が等しく尊いものに感じられてきて、被写体としての興味も湧いてくる。