行きつけの川辺を一人で歩く。
秋虫がすだく草むらからは、一歩行くごとにバッタが飛びたっていった。私の背丈を超えるカヤが茂る中、頭上にカメラをかかげてさらにガサガサと進む。ようやく水際の少し開けた地点にたどり着くと、土手の上を人々が行き交うのが見えた。歩きの人、ジョギングの人、自転車の人。それぞれの人がそれぞれの速度で右から左へ、左から右へと通り過ぎていく。
気持ちがいい。
ここからなら空と地面の境界が見える。なんとなく、草の穂が逆光に輝くあたりにカメラを向けていたその時、背後から声をかけられた。
「何撮ってるの? 鳥?」
振り向くと60は超えたと見えるおじさんがいた。両手にバケツ。畑にやる水を汲みに来たらしい。
「いや、草…とか」
いつも通りの質問に、私はいつも通りに答えた。今まで何度聞かれただろう。それほどここは、野鳥カメラマンが多いのだろうか。私は私でよい回答が見つからず、いつも困惑する。
確かに、撮った写真を後になって見れば草が写っていることは多く「草とか」という答えに間違いはない。しかし、自分の返した言葉にどこか違和感を感じてしまうのは、撮影が目的でここを訪れるわけではないからだろう。そもそも私がまだカメラを知らない時より、時折足を運ぶ場所である。
その場所に来て、いろんな音を聞き、感触を確かめ、光を見る。あまりに気分がよくてどうしたらよいのかわからなくなる。それは「きれいだな」という感動とはやや違って、「あ、『今の感じ』を持って帰りたい!」といったところかもしれない。やり場のない気持ちでシャッターを切ると、写真には、草や木、空が写っていることが多い。
残念なことに、撮れた写真を褒めてくれる人はいても、自分が感じた「今の感じ」はなかなか写ってくれない。もしかして私は写らないものを写そうとしているのではないか。時々不安になりながら、写真に写る「何か」を信じて茂みをかき分けて行く。