●もはや自民党単独政権は帰ってこない
2000年の日本政治は、4月に小渕前首相の緊急入院に伴う森内閣の誕生、6月には衆院総選挙が行われるなど現象面では大きな出来事が起きたものの、内容的には、自公保連立政権と景気回復最優先政策が継続されるなど目立った変化はみられなかった。にもかかわらず衆院選では、自民党が単独で政権を維持することはもはや不可能で、同党が衰亡への道を確実にたどっていることが改めて浮き彫りになった。同党は既に公明党抜きの選挙は戦えない体制に変質しており、このことは近い将来、両党が合流する可能性を秘めている。 一方、野党では第一党の民主党の躍進が目立ったものの、なお有権者は同党に政権を委ねる意志を明確にしていない。来年7月の参院選までに、同党が野党のリーダーとしてどれだけ選挙協力をまとめ上げ、国民の納得できる政権構想を提示できるかどうかに、政権獲得の夢がかかっている。
●全国に吹き荒れた「1区現象」の嵐
6月26日に行われた第42回衆院総選挙で自公保の与党3党は合計271議席を獲得、公示前の330議席から大きく減らしたものの、269の絶対安定多数は確保した。自民党は小選挙区177、比例代表56の計233議席と過去最大の減少となったが、野中幹事長(当時)は「負けではない」と強弁、ついに執行部が責任を取ることはなかった。(ただし野中氏は12月、幹事長辞任の際、衆院選“敗北”をその理由に上げた)
同選挙で特徴的だったことは、農村部は自民党、都市部は民主党(野党)に二極分化し、地方の都市部でもある県庁所在地では、与党が27区獲得したのに対し、野党も17区(残り3区は保守系無所属)と健闘、いわゆる“1区現象”が起きたことにある。首都圏では自民党の大物候補が次々と落選、民主党若手候補に取って代わられた。自民党の公共事業バラマキ政策や森喜朗首相の相次ぐ失言に怒った無党派層が雪崩を打ったものとみられ、この傾向は10月の長野県知事選や衆院東京21区補選などにも表れた。
また加藤紘一元幹事長が「地方の保守中核層崩壊の危機」を訴え、11月の「加藤の乱」の際、同氏のホームページに100万件を超すアクセスがあったこととも、こうした現象と無縁ではないだろう。
●後を引く森政権誕生の「不透明さ」
森喜朗自民党幹事長は4月5日、小渕恵三首相の脳硬塞による緊急入院に伴う内閣総辞職で、第85代内閣総理大臣に指名され、同日、新内閣が発足した。しかし、小渕首相入院の事実が22時間も公表されなかったうえ、青木幹雄官房長官の首相臨時代理就任や「5人組」による密室の後継首相選びなどが森政権の「正統性」に大きな疑問を残した。
現在の内閣支持率の低迷は森首相自身の資質に問題があることは間違いないが、加えて首相選出時の「不透明さ」が今なお後を引いている。森首相のリーダーシップ欠如がたびたび指摘されるが、野中前幹事長はかつて著書で森氏について「政治家としての資質に欠くる」とまで言い切ったことをよもや忘れていまい。12月の内閣改造で橋本龍太郎元首相ら大物が入閣し、森首相の存在感が希薄になったと言われるが、当然のことだろう。
●目立った「地方の反乱」
2000年は、先に挙げた長野県知事選で44歳の作家、田中康夫氏が初当選、東京都の石原慎太郎知事が大手銀行に外形標準課税導入の方針を明らかにし、全国に新税構想が波及するなど、「地方の反乱」が目立った年でもあった。石原知事はこのほか、ディーゼル車の都流入規制や羽田空港の国際化などこれまでタブーに近かった改革に次々と挑戦、各県知事を大いに刺激している。石原氏は「中央が頼りにならないから」を繰り返しているが、「頼りにならない」中央に代わって石原氏をリーダーとする「知事連合」が国政の主導権を握ることは強まりこそすれ、弱まることはないだろう。
●調整役失い、始まった「ガチンコ政治」
小渕前首相が5月14日に死去したのに続いて竹下元首相が6月19日に、梶山元官房長官が同6日と相次いで亡くなった。いずれも自民党田中派(後に竹下派)に属しており、いわゆる「田中政治」は名実共に終焉を迎えた。同時に竹下氏が最も得意とした調整型の「根回し政治」も事実上終わったと言えよう。このため政界は竹下氏という最大の調整役を失い、常に建て前だけが激突する「ガチンコ政治」の時代に突入した。参院比例代表への非拘束名簿式導入のための公選法改正に伴う斎藤十朗参院議長の辞任は、このあおりのひとつだった。
[政治アナリスト 北 光一]
2000/12/25
09:24
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