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国立代々木競技場を世界遺産に 不世出の建築家・丹下健三の最高傑作
2024年1月15日 08:20
稀代の建築家・丹下健三(1913年~2005年)は、1957年に竣工した東京都庁舎、そして1991年に竣工した東京都庁舎、香川県庁舎、クウェート大使館、東京カテドラル聖マリア大聖堂、山梨文化会館などの有名建築を手がけました。その中でも最高傑作と評されているのが、国立代々木競技場(第一体育館・第二体育館)です。
国立代々木競技場は1964年に開催された東京五輪で水泳や飛び込みの競技場、バスケットボールの試合会場として使用されました。新型コロナウイルスの影響で開催が一年遅れた2020東京五輪でも、ハンドボールやウィルチェアラグビー(車いすラグビー)の試合会場になっています。
2つの五輪の競技会場になった国立代々木競技場は、2021年に国の重要文化財にも指定されています。そして、さらなる飛躍を目指して世界遺産へと推す動きが出ています。
なぜ、国立代々木競技場は世界遺産を目指すのでしょうか? 国立競技場世界遺産登録推進協議会の事務局長を務める千葉大学工学部の豊川斎赫准教授に、建築家・丹下健三の建築思想や国立代々木競技場の魅力、世界遺産を目指す意義について話を聞きました。
丹下健三が向き合ってきた日本が絶対に避けて通れない5つのテーマ
――国立代々木競技場の意匠設計を担当した建築家・丹下健三とは何者か? ということからお伺いしたいと思います。豊川斎赫准教授は『丹下健三』(岩波新書)や『国立代々木競技場と丹下健三』(TOTO出版)という著作を出されています。豊川さんが丹下に興味を抱いた原点はなんだったのでしょうか?
豊川:丹下健三は多くの有名建築物を手がけた日本屈指の建築家ですから、学生時代から名前はもちろん知っていましたし、丹下が手がけた広島平和記念公園および広島平和記念資料館、そのほかにも建築物を見るために各地へ足を運んでいます。
しかし、私が丹下を強く意識したのは大学院時代です。岡部憲明さんが設計の非常勤講師として来られたのですが、そのときに丹下が手がけた国立代々木競技場の話が出たのです。
一般的に岡部さんは小田急電鉄のVSEやGSEといった歴代ロマンスカーのデザイナーとして知られていますが、私が学生だった頃は関西国際空港の旅客ターミナルビルをデザインした建築家として有名でした。
関空のターミナルビルのポイントは2つあって、屋根面がすべて同じパーツで覆われている。屋根のウロコの部分が、同じパネルを少しずつズラして大きな形にしている。そうした鳥のようなデザインの屋根が特徴的で、流線形でダイナミックな形でした。
もうひとつのポイントは、一見すると風変わりな形ですが空気の流れをダイナミックにコントロールしていることです。関空のターミナルビルは大きな吹き出しが1カ所から風を吹かせて、建物全体を空気で覆うことで空調ができています。
私が大学院生のときは、関空のターミナルビルが一番かっこいい建築物だったのです。その一番かっこいい関空をデザインした岡部さんが「私が関空の屋根をデザインするのにあたり、影響を受けているのが国立代々木競技場。もうひとつが、シドニーのオペラハウス」と言っていたのです。自分が一番尊敬している先生が、国立代々木競技場に影響を受けていたことは学生だった私に大きな影響を及ぼしました。
その後、大学院を修了して民間企業に就職します。ビルを建てるということは、こういう仕事なんだということを実践的に学びました。それから会社を辞めて博士論文を書きます。このときに丹下健三を題材に選ぶわけですが、書き始めるまでは丹下で書くという気持ちはありませんでした。ところが、会社を辞めて3カ月後には題材を丹下に決めます。その博士論文の中でも、国立代々木競技場に一番多くのページを割きました。
――丹下は日本の建築史に残る建築物や構想をたくさん残しています。丹下健三の建築・構想を理解する上で、重要なポイントを教えてください。
豊川:丹下は1913年に生まれて2005年に没していますが、建築家としてのキャリアは非常に長い。日本が第2次世界大戦に負けたあたりから、丹下がデザインした建物が建ち始めます。
丹下は日本が絶対に避けて通れない5つのテーマと向き合ってきました。その5つとは、(1)日本建築界の伝統と近代化、(2)戦争と平和、(3)戦後民主主義と庁舎建築、(4)大空間への挑戦、(5)高度経済成長と情報化社会です。
(1)の日本建築界の伝統と近代化ですが、丹下は桂離宮を参考にして自邸を設計しています。丹下は、どうやって自分たちは日本というものを意識しながら世界に対して建築物を造っていくのか? という問いを立てました。その問いに対して、伝統という問題は避けて通れません。
(2)の戦争と平和というテーマでは、広島平和記念公園と記念館、さらに兵庫県南あわじ市の戦没学徒若人の広場などをデザインしています。
(3)の戦後民主主義と庁舎建築では、旧東京都庁舎や香川県庁舎を設計しています。神奈川県庁舎や愛知県庁舎のような帝冠様式の庁舎は、首長が威厳を高めることを目的に設計されています。戦後民主主義において、庁舎は民衆に開かれていなければならない。そういった思いから民主主義をどうやって美しく庁舎に落とし込めるのか? を思案しています。
そのプロトタイプとして1957年に旧都庁舎を、そして1958年に香川県庁舎を設計したのです。丹下が設計した香川県庁舎は、それがひとつのプロトタイプになり、各地の庁舎に活かされました。つまり、丹下は開かれた庁舎の初号機をつくったということです。
(4)の大空間への挑戦では、たくさんの人が集まる場所は昔だったら体育館でした。体育館は地方都市だったら国民体育大会(国体)をはじめとするスポーツイベント、そのほかにものど自慢大会などを実施する場所として活用されました。コミュニティとして、多くの人が1カ所に集まる場所が体育館になるんです。
丹下は愛媛県松山市の愛媛県民館を設計し、1957年にも静岡国体の開催に合わせて静岡県静岡市に竣工した駿府会館を設計しています。丹下が設計した体育館はコンクリートを主に使いました。
通常、人が多く集まれる巨大な体育館は鉄骨造です。鉄骨造だと工期も短く、丈夫に造れるからです。また、鉄骨造だと重機ですぐに造れるので、人手も少なくて済みます。
しかし、当時の鉄は高価な建築資材なので、先進国でしか使用でききませんでした。敗戦によって、財源が乏しい日本にとって、鉄骨造による巨大な建築物は費用的に不可能だったのです。
一方、コンクリートは職人がこねて製造します。後進国は人件費が安いので、人力に頼るコンクリートは安上がりでした。そのため、丹下もコンクリートで大空間をつくるために腐心しています。
ところが日本も経済成長を遂げて、1960年代に入ると鉄を建物に使えるようになりました。
また、1960年代になるとコンクリートは施工不良が起きやすいことがわかり、コンクリート建築の限界も見えてきました。こうした状況の変化から、鉄を使う建築の可能性が拓けてきたのです。
そんな時期に、ヨーロッパやアメリカで流行っていたのが吊り屋根(サスペンション)構造で建設する体育館や博覧会のパヴィリオンです。日本でも吊り屋根構造で大空間を造れないだろうか? という問いが次の課題でした。それまでは大きなコンクリートで大空間の屋根を造っていましたが、時代とともに鉄へとシフトしていきました。そうした鉄へのシフトの過程で誕生したのが国立代々木競技場です。
(5)の高度経済成長と情報化社会では、ずっと丹下本人が「情報化社会を建築に投影するのは難しい」と言っていました。現代に活躍する建築家も情報化社会を捉え損ねているし、60年前の丹下も捉えられていなかったと思います。丹下自身もインターネットがここまで隆盛するような時代を予見できていませんでした。
いまやインターネットを通じて日本とニューヨークで同時に会話ができることが当たり前です。建築は物理で重さがありますので、情報化社会とは対極的にある分野です。人類始まって以来、建築は人と人が出会う物理的な装置であり、建築の内外で情報のやり取りが発生しました。それをITとかインターネットといった問題とどう折り合いをつけるのか? 丹下は、それに挑んだわけです。この5つを抑えておくと、丹下建築を理解できるようになると思います。
国立代々木競技場は5つのキーワードすべてを満たす建築物
――近年になって取り壊されている丹下建築も出てきましたが、それでも国立代々木競技場をはじめ、いまだ現存している丹下建築は多いです。その中でも国立代々木競技場を世界遺産にするべく活動をしていますが、その魅力を教えてください。
豊川:先ほど説明した丹下の5つテーマがいい形で統合されているのが国立代々木競技場だと考えています。
丹下は代々木国立競技場を設計するのにあたり、わざわざ鉄板を貼って屋根を重くしました。大寺院のような重々しいデザインです。もっと軽いデザインもできたはずですが、人がたくさん集まる場所には大きくて重たい屋根がある建物がしっくりくるという伝統表現を目指したのです。そして世界中で建設された吊り屋根構造の中で代々木競技場の吊り屋根構造は最も難易度が高く、かつ完成度も高いものになっています。
また、国立代々木競技場はもともと練兵場だった場所で、敗戦後に進駐軍に接収されて兵舎などが並ぶ軍用地でした。それが五輪のために返還されたわけですが、五輪は平和の祭典です。そこに人が集う大空間の建築物を造るわけです。そういったことから考えると、代々木は丹下の5つのキーワードすべてを満たす建築物ともいえます。
――「国立競技場」というと、東京五輪のために建て替えられ新宿区に所在するスタジアムを思い浮かべる人が多いと思います。代々木も国立競技場ですが、サブといったイメージが強いように思うのですが……。
豊川:2020東京五輪のために建て替えられた国立競技場は、1964年の東京五輪でメイン会場および陸上競技場として使用されました。当時、オリンピックの花形競技はマラソンでしたから、国立競技場の収容人員は6万人を想定して建設計画が立てられています。こうしたことを踏まえれば、取り壊された国立競技場がメイン会場になることは当然です。
一方、当時の日本は水泳をお家芸にしていました。国立代々木競技場の計画が立ち上がったときに、文部省(現・文部科学省)とJOC(日本オリンピック委員会)が「とにかく、水泳は日本のお家芸だから、盛り上げたい。世界一の水泳場をつくりたい」という希望を出しています。
そうした経緯からも、日本が水泳という競技に思い入れが強かったということがわかります。名称も、計画時点では国立屋内総合競技場となっていました。当時の日本政府やJOCには、サブという意識はなかったと考えられます。
――国立競技場は老朽化を理由に建て直されました。他方、国立代々木競技場は改修されていますが、ゼロからの建て直しは行なわれていません。大事にされてきたからでしょうか?
豊川:国立競技場も国立代々木競技場も、管理・所有しているのは文部科学省が所管する独立行政法人のJSC(日本スポーツ振興センター)ですが、実は国立代々木競技場は70年代から雨漏りがひどくなり、ペンキが剥げ、電光掲示板も壊れているような状態でした。オイルショックの影響もあり、補修の費用も国から十分にもらえませんでした。
丹下は繰り返し修理をするように関係省庁に陳情し、ようやく多少の予算がついて少しずつ補修されるようになりました。
それでもプールは入場料が一人100円200円です。一日に1,000人がプールを利用しても売上は20万円程度にしかなりません(現在は個人利用者への一般公開は行なっていない)。国立代々木競技場は温水プールなのでお湯を焚くためのランニングコストもかさみます。売上から水道代・電気代・人件費などの経費を差し引いたら、とても建物をメンテナンスする費用は捻出できません。
そんな悲惨な状態になっていたのですが、幸運だったのはオイルショック後に政府が「自分で稼ぎなさい」という方針を打ち出したことです。それまでは国立ゆえにスポーツ振興という理念に反するようなスポンサー付きのスポーツ大会を開催したり、アイドルや歌手のコンサートといったイベント興行はできませんでした。ましてや、特定の企業の看板を設置することやロゴを掲出することは無理な話でした。
方針が大きく変わったことで、実業団のスポーツ競技が開催されるようになり、テニスなどのプロスポーツも実施されていきます。プール場には床に板を張って、そこで多くの競技大会を開催しました。それが、大いにウケたのです。
こうして人気が高まってくると、アイドルのコンサートが開催されるようになります。当時は一人8,000円程度の入場料ですが、それでも1万人以上のファンが来場するので桁違いに稼げるのです。
国立代々木競技場はスポーツ施設ですので、イベントで稼ぎながらも本来の目的であるスポーツ振興にもきちんと取り組み、たとえば春高バレーを開催するようになります。ところが春高バレーの開催時に、テレビ中継が入るなどして人気が出ます。そしてジャニーズがテーマソングを歌うなどしてバレー人気も高まり、観客数も急激に増えました。
人気が高まると若い女の子がたくさん詰めかけるようになり、それを理由に「トイレをキレイに改修しよう」とか「照明を明るくしよう」といった具合に、どんどん施設がキレイになっていきました。多くの利用者を集め、それなりに収入が増えると改修にも正当性を帯びてきます。こうして国立代々木競技場は受難の時代を乗り切ったのです。
今は誰が見ても儲かっていると感じるほど盛況で、その黒字で国立競技場の赤字を補填している状態です。
経済合理性最優先なら世界遺産にする必要はないが……
――2021年に国立代々木競技場は国の重要文化財に指定されました。これだけでも快挙ですが、さらに世界遺産を目指す理由は何でしょうか?
豊川:設計をする人やゼネコンなどで働いている人など、建築・建設に関わっている人は20世紀に建てられた建築物で国立代々木競技場の難易度が一番高いことを理解しているからです。清水建設の宮本洋一会長も「今、『国立代々木競技場を造れ』と言われても、造れないだろう」と言っているほどです。それほど難しく、それでいて見た目も美しい。
さらに、国立代々木競技場を見て、多くの建築家が次の時代に向かって代々木を超える建築物を造ろうという目標にもなっています。要するに、国立代々木競技場は建築界の北極星で、国立代々木競技場を失うと、建築家は何を目指していいのか、建築とはどういうものなのかを考えられなくなるような存在です。
今、東京は再開発ラッシュで超高層ビルがあちこちに建てられています。ところが、そうした超高層ビルの多くは、どれも似たようなデザインをしています。「東京は、そういう個性のない超高層ビルばかりの都市でいいんだ」「経済合理性を最優先に考えて、古いビルは速やかに解体した方がいい」ということでしたら、国立代々木競技場を世界遺産にする必要はありませんし、そもそも建築物としても不要です。
ところが、建築・建設業界で「自分が設計・建設している建物が国立代々木競技場を超えている」と思っている人はいません。新しい国立競技場を設計し、代々木競技場世界遺産登録推進協議会の代表理事である隈研吾さんでさえ、「足元にも及んでいない」と言っているほどです。それほど、国立代々木競技場は20世紀の日本を背負った代表的な建築物なんです。
だから、世界遺産にして、後世の建築家にも伝えていく。それが建築家や建設業、そして東京という都市にとっても欠かせないことだと考えています。
――世界遺産になったら逆にスポーツ大会やコンサートを開催しづらくなるような事態にはならないのでしょうか?
豊川:建築物の保存には、リビングヘリテージという概念があります。リビングヘリテージとは、普段使いの遺産と表現するのが妥当なところですが、とにかく建物を使いながら保存していく考え方です。これは文化遺産的な建物だけではなく、一般の住宅でも同じで、使っていないと劣化を早めてしまうのです。
人が使い、そして定期的に清掃などのメンテナンスをするから建物の変化にも気づきます。そのたびに汚れを拭く、ヒビなども早めに補修するといった対応が可能です。
20世紀以降の建物は使うことを前提に設計されていますので、使ってこその遺産ともいえます。使うことが継承することにもつながるわけです。
ただ、重要文化財の指定には、所有者の同意が必要です。国立代々木競技場を重要文化財にするにあたり、所有者のJSCは簡単にはOKを出してくれませんでした。
それはなぜかと言うと、コンサートを開催すれば毎回のように超満員になるからです。俗な言い方をすれば、ドル箱です。だから、もっと客席を増やしたり、高性能のLED照明を増やしたりして、イベントを盛り上げたいといった気持ちがあったようなんです。
重要文化財になると、文化庁から「あれはやるな」「これはダメ」といった決まり事が増えてしまう可能性があります。決まり事が増えたことによって種々の取り組みができなくなる可能性があるので重要文化財にしたくないと及び腰だったのです。
それでも協議会の代表理事である隈さんと事務局長である私が関係省庁に陳情し、「国立代々木競技場が完成から60年経って再び五輪競技会場にもなり、次の時代に引き継いでいくというメッセージを発信するためにも重要文化財にするべき」とお願いして回ったところ、JSCもようやく重要文化財にすることを同意してくれました。
――世界遺産までのロードマップは、どのように考えていますか?
豊川:事務的なことを言いますと、次のステップは暫定リストに入ることです。政府が世界遺産の暫定リストを管理していて、その暫定リストから「今年は日本から〇〇を世界遺産に推薦します」とトランプのカードを切るように、一年に一件提出していきます。だから、その暫定リストに入るのが次の課題です。
その暫定リストから、何を提出するのか? それを選ぶのは内閣です。だから、そこから先は私たちができることは少なくて、首相の思惑ひとつで決まります。まず、暫定リストに入るまでは協議会としても一生懸命やることだと思っています。
豊川斎赫(とよかわ・さいかく)
1973年、宮城県生まれ。東京大学卒業後に東京大学大学院工学系建築学専攻を修了して日本設計に入社。その後、国立小山工業専門学校を経て現在は千葉大学准教授。一般社団法人国立代々木競技場世界遺産登録推進協議会の事務局長も務める。主な著書に『丹下健三』(岩波新書)、『国立代々木競技場と丹下健三』(TOTO出版)、『丹下健三 ディテールの思考』(彰国社)など。2012年に出版した『群像としての丹下研究室』(オーム社)で、日本建築学会著作賞と日本イコモス奨励賞を受賞。