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関東大震災から100年 もうひとつの被災地・横浜の傷痕と復興を歩く
2023年9月1日 08:20
今年9月1日は、関東大震災から100年の節目にあたります。関東大震災は帝都・東京を中心に甚大な被害を出しました。関東大震災の被害は広範囲にわたり、神奈川県横浜市でも多くの犠牲者を出しています。建物や道路などの損壊や焼失は東京に匹敵するほどでした。今回、関東大震災100年を迎えるにあたり、横浜駅・桜木町駅・関内駅といった市街地に残る震災と復興事業の痕跡を巡ってみました。
横浜駅は関東大震災の復興事業で現在地へと移転
1923年9月1日11時58分に関東大震災は起きました。地震による建物の倒壊は甚大でしたが、それ以上に被害を大きくしたのが火災です。
地震発生時は、ちょうど昼食時でした。そのため、昼食の準備をしていた家庭も多く、その火が原因となって各地で火災が発生したのです。横浜でも地震で多くの建物が倒壊。その後の火災で市街地は灰燼に帰しました。
江戸期の横浜は東海道筋からはずれた場所にあったため、ひなびた農漁村でした。そんな横浜を大きく変えたのは、幕府が長らく続けてきた鎖国を見直したことです。鎖国を解いた幕府は横浜を開港場に指定。多くの外国人が横浜に滞在しました。
横浜は外国との貿易で注目を浴びるようになりましたが、他方で横浜の人たちも西洋人から多くの刺激を受けました。いわゆる、文明開化と呼ばれるもので、西洋の影響を受けた分野は多岐にわたります。なかでも特筆すべきが食と建物、そして鉄道です。
昨年、2022年は鉄道開業150年の節目でした。日本初の鉄道は、新橋(後の汐留)駅-横浜(現・桜木町)駅間で、横浜市は昨年に鉄道開業150年の行事をたくさん開催しています。
鉄道開業当時の横浜駅は現在の桜木町駅ですが、今回は横浜の被災・復興を知ることが目的ですので、玄関駅でもある横浜駅からスタートします。
現在の横浜駅は、JR線(東海道本線・京浜東北線・横須賀線・横浜線など)のほか、東急電鉄の東横線、相模鉄道の本線、京浜急行電鉄の本線、横浜市営地下鉄ブルーライン、横浜高速鉄道(みなとみらい線)の6社が乗り入れています。
これだけ鉄道が集中しているのを見るだけでも、横浜駅が巨大ターミナルであることがわかります。その横浜駅が現在地に移転してきたのは、関東大震災の復興計画に基づくものでした。
横浜市の都市計画課長だった阪田貞明は、関東大震災の発生時に病没しています。空席になっていた都市計画課長に就任し、復興計画を主導したのが牧彦七です。牧は後藤新平の側近で、その後藤は帝都復興院総裁に就任しています。
帝都復興院は、関東大震災で壊滅した帝都・東京を復興させる臨時的に発足した官庁です。東京は後藤が全面的に指揮しましたが、横浜の復興は牧に委ねられました。それほど、牧は有能かつ信頼されていた人物だったのです。
牧は横浜を復興させるには、東京駅のようなターミナル駅が必要と考えました。そうした考えから、横浜駅を現在地へと移転させます。これが3代目の横浜駅となり、3代目横浜駅には多くの鉄道が乗り入れました。その後もバージョンアップを繰り返しながら現在に至っています。
3代目ということは、それ以前の横浜駅はまた別の場所にあったということです。初代の横浜駅は既述のように現在の桜木町駅にあたりますが、2代目の横浜駅は横浜駅から横浜市営地下鉄ブルーラインの高島町駅へ向かう途中に建てられました。
2代目横浜駅があった場所は、歳月の経過とともに宅地造成が進み、現在はマンションへと姿を変えています。私有地なので足を踏み入れるのは勇気がいりますが、マンション1階は公開空地になっているので居住者に迷惑を及ぼさない範囲で見学することが可能です。
2代目横浜駅の遺構は、建物の基礎部分にあたるレンガが残されているだけですが、それでもレンガからは震災前の歴史的な空気が漂っています。
貨物線が走っていた現在のみなとみらい21地区
2代目横浜駅から桜木町駅へと向かう途中から、首都高の横羽線と国道16号線、そして京浜東北・根岸線の高架線と並走します。しばらく歩くと、左手に見えてくるのが三菱ドッグ踏切です。
踏切名は三菱重工業のドックがあったことに由来します。ドックとは造船・係船・荷役といった作業をするための港湾施設のことです。もともと、同地には横浜船渠という会社がありました。
横浜船渠は原六郎が立ち上げた会社です。原は横浜正金銀行の頭取を務めたほか、東武鉄道・山陽鉄道(現・JR山陽本線)・九州鉄道(現・JR鹿児島本線)・北越鉄道(現・JR信越本線)など、多くの鉄道会社の設立にも関わった鉄道と縁の深い実業家です。
同踏切は東海道本線の貨物支線で、鶴見駅-桜木町駅間は高島線と通称されています。同線は貨物列車の専用線になっているため、現在は頻繁に列車が通過することはありません。それでも長大な貨物列車が通過する様子を目にすると、かつて横浜港一帯に貨物線が広がっていたことを偲ばせます。
開港場になって以降、横浜は驚異的な発展を遂げてきました。港は外国からの玄関機能という役割を果たしますが、輸出入という貿易の窓口にもなります。そのため、横浜港に広大な貨物側線が敷設され、全国から農産品・工業製品が集まったのです。また、諸外国から舶来品が輸入され、それらは東京を中心に全国各地へと運ばれていきます。
現在、桜木町駅の東側は再開発されて駅前広場や高層ビル群へと姿を変えています。しかし、それ以前の桜木町駅東側は貨物列車が行き交うような光景が広がっていました。
桜木町駅東側が貨物基地になったきっかけは、1915年に桜木町駅が高架化されたことです。桜木町駅の高架化により、地上部分の線路が貨物専用になります。そこに貨物専用の東横浜駅が開設されたのです。
東横浜駅は横浜の繁栄を物流面で下支えしました。しかし、桜木町駅や関内駅周辺が歳月とともに都市化していくと、都心部に貨物駅が位置することに不具合が生じるようになります。
こうした理由から、東横浜駅は1981年に廃止。その跡地が再開発されて、みなとみらい21地区と呼ばれるエリアになったのです。みなとみらい21地区には2004年にみなとみらい線が新規開業しますが、その後も2021年には都市型ロープウェイのYOKOHAMA AIR CABIN(ヨコハマ・エア・キャビン)が開業するなど、鉄道スポットとしても注目されるエリアといえます。
東横浜駅とともに横浜港の物流を支えた、もうひとつの鉄道遺構も残されています。それが横浜港駅のプラットホームです。桜木町駅の東口から目の前にそびえる横浜市庁舎を抜けて、さらに横浜赤レンガ倉庫の方向へと歩くと、ひっそりとした空間に横浜港駅のプラットホームが保存されています。
横浜港駅は1911年に横浜港荷扱所として開業。1920年には旅客営業も開始して、正式に横浜港駅となりました。
横浜港の物流を支えた東横浜駅と横浜港駅は、ともに関東大震災で被災。横浜駅-桜木町駅-関内駅は幕末から干拓と埋め立てを繰り返して造成された土地ですから、震災によって一帯の地盤は沈下してしまいました。当然ながら一面に広がっていた貨物線は機能不全に陥っています。
横浜港周辺は明治期から一貫して横浜の中心市街地だったため、神奈川県庁や横浜税関といった公益機関や金融機関なども集積しています。それらが震災で倒壊・焼失してしまったことにより、横浜全体が機能不全に陥りました。それらは少なからず東京にも影響を与えています。
横浜三塔として親しまれている建築物も被災
横浜中心部に建てられた庁舎や銀行は洋風建築でデザインされていることが多く、現在も横浜駅・桜木町駅・関内駅の一帯には洋風建築が残っています。それが、今でも横浜の街並みを異国情緒あふれる雰囲気にしている理由ですが、関東大震災で焼失・倒壊してしまった洋風建築も少なくありません。
復興にあたって洋風建築から姿を変えた代表的な建物が神奈川県庁舎です。復興にあたって、神奈川県庁は純然たる洋風建築から脱して鉄筋コンクリートを用いた帝冠様式に建て替えられました。帝冠様式に明確な定義はありませんが、おおむね西洋と日本の建築思想をミックスさせた和洋折衷のデザインが特徴です。
神奈川県庁舎は関東大震災で被災し、1928年に再建。現在も県庁舎として使用されています。城郭を思わせるような意匠ながら、鉄筋コンクリート造という西洋の建築技術を取り入れています。神奈川県庁舎は横浜港に入港する船の目印になるように、中央に塔屋を配しています。
神奈川県庁舎の近くにある横浜税関の庁舎も関東大震災で被災しました。貿易で繁栄を築いた横浜ですから、税関も重要な建物であることは間違いありません。その税関は復興事業で1934年に建て替えられました。新しい横浜税関の本庁舎は、イスラム寺院風のドームの塔屋が配されました。
また、前2者よりも早い1917年に竣工した開港記念横浜会館(現・横浜市開港記念会館)も震災で倒壊。時計塔は残りましたが。ドーム型屋根は焼失しています。開港記念横浜会館のドーム屋根は復興事業で復元されませんでした。
1985年に創建時の図面が発見されたことを機にドーム型屋根を復元。神奈川県庁舎、横浜税関本庁舎と並び横浜のシンボルになっています。
これら3つの建物は神奈川県庁舎がキングの塔、横浜税関本庁舎がクイーンの塔、横浜市開港記念会館がジャックの塔と呼ばれ、横浜三塔として市民にも観光客にも親しまれています。
また、1900年に竣工した横浜正金銀行本店はドーム屋根が特徴でしたが、関東大震災で倒壊・焼失。復興事業で建物は再建されましたが、ドームは再建されませんでした。そのため、横浜四塔とはなりませんでしたが、1964年に建物を神奈川県が買い取って博物館として使用することになりました。
神奈川県が買い取った際にドーム屋根を復元したこともあり、最近ではキング・クイーン・ジャックと並んで神奈川県立博物館の建物はエースの塔と呼ばれるようになっています。
関東大震災後も復興で活躍した横浜市電
横浜駅・桜木町駅・関内駅といった横浜中心部には関東大震災の傷痕と復興を感じられる名所・旧跡が点在していますが、忘れてはならないのが横浜市電です。
横浜市電の歴史は1921年に横浜電気鉄道を市営化し、電気局が発足したことから始まります。市電は電気局の統括下に置かれた頃、すでに横浜駅-桜木町駅-関内駅といったエリアには市電が走っていました。その矢先に、関東大震災が起きたのです。
関東大震災では車両・線路・変電所などが被災し、横浜市電は運行することが不可能になりました。それでも、発災から約2か月後には大部分が復旧。市の中心部に市電が走っている姿は、多くの横浜市民に希望を与えました。
そこから復興の足がかりになっていきます。昨年は電気局が発足100年、つまり市電が誕生して100年という節目でもありました。
横浜市電は関東大震災後も横浜の復興で大活躍しましたが、その後の市域拡張に伴って路線網を拡大していきます。1946年に電気事業を手放すことになったことから、横浜市交通局へと改組。名前は変わっても、市民の足という役割に変化はありません。
しかし、高度経済成長期に市電を地下鉄へと代替することが決まります。この決定により、少しずつ市電は廃止され、1972年に全廃。市電に変わり、交通局は横浜市営地下鉄と市営バスを運行する交通事業者になりました。
現在、桜木町駅東側のバスロータリーからは、市電保存館へと向かう横浜市営バスの21系統が発着しています。21系統は桜木町駅のほか横浜市役所前や神奈川県庁前にも停車しますので、最後に市バスに乗車して磯子区にある市電保存館を訪ねてみましょう。
市電保存館は、市電が全廃した翌1973年に開館しました。市電保存館は市電の滝頭車両工場を再整備したものですが、その後に改修されるなど車両工場の面影は消えています。現在の市電保存館は市営住宅の1階にあり、市営バスの滝頭営業所が隣接。バスが並ぶ光景は壮観です。
同館は市電の歴史を後世に伝えるべく往時の車両や電停標などが展示されているほか、シミュレーターやジオラマなどで楽しく遊ぶことができます。もちろん、関東大震災における市電の被災状況などを伝える展示も豊富です。
筆者が市電保存館を訪問した日、親子連れや祖父と孫といった具合に、世代を越えた来館者をたくさん見かけました。横浜市電が姿を消してから半世紀以上が経過していますが、保存館が歴史を語り継ぐ役割を果たしています。
震災遺構や復興遺産を訪ね、防災に思いを巡らせる
関東大震災が発災した9月1日は、防災の日に定められています。この日は全国の小中学校や町内会、マンションの管理組合などで避難訓練や消火訓練が実施され、特に防災意識が高まる1日です。
1日の訓練で災害時の対応が万全になるわけではありません。災害には日頃からの心がけが重要です。とはいえ、慌ただしく過ぎる毎日の中で常に災害を意識しながら生活することはできません。
今回、横浜に残る震災遺構・復興遺産の一部を紹介しました。100年という節目において、震災遺構や復興遺産を訪ねることは、災害について考えることにもつながります。ほかにも震災や復興を感じられるモノはたくさんありますが、それらを見て防災に思いを巡らせてみてください。