鈴木淳也のPay Attention

第192回

東急の新タッチ・QR乗車サービス「Q SKIP」の本当の狙いとは

8月30日から田園都市線でスタートした東急の「Q SKIP」サービス]

東急電鉄は8月30日からの「Q SKIP」サービスの開始に先立ち、29日に報道関係者向け説明会を開催した。

位置付け的には南海電鉄や福岡市地下鉄など、先行する鉄道各社が提供する「(非接触)クレジットの“タッチ”決済」で改札を通過して乗車する、いわゆる「オープンループ」に属するサービスだが、他所で導入されているような改札の入場と出場の2回の“タッチ”で区間運賃を算出し、後ほど1日の乗車分の料金を請求する「後払い方式」ではなく、事前に「企画券」をオンライン購入し、そこで表示される「QRコードを提示」または「決済に利用した(非接触対応の)クレジットカードをそのまま改札に“タッチ”」することで通過できる「事前購入方式」となっている。

現在は、東急電鉄でも田園都市線(加えて世田谷線)のみの対応ということもあり、東急の路線ネットワーク全体に拡大を待ち、後ほど改めて「後払い方式」への対応となる。サービスの詳細は本誌のレポート記事を参照いただくとして、本稿ではその背景にある各社の動きや狙いをまとめつつ、より細かい部分に言及したい。

なぜ「事前購入方式」でのスタートなのか

前述レポートの中でも触れられているが、主に2つの理由がある。

1つは東京都市圏の特殊事情である「複雑な相互直通運転」に由来するもので、東京都心部と郊外を結ぶJR・私鉄各社を地下鉄路線を通じて結び、ターミナル駅での混雑を解消しつつスムーズな移動を実現する「相互直通運転」の存在により、利用者は改札を経ずにそのまま異なる会社の3路線以上の乗り継ぎが可能になってしまう。事前購入方式であれば、田園都市線が東京メトロ半蔵門線に相互直通する渋谷駅までの乗車券はすでに入手していることが示せるため、仮に東京メトロの他の駅や、そのさらに先の相互直通先の私鉄各社の駅から出場するとしても、渋谷駅での乗車扱いで精算を行なえば済むため処理が容易だ。東急電鉄によれば、接続先各社にはすでに了解を得ており、田園都市線でQ SKIPを使って乗車した利用者であっても、ほぼ問題なくどの駅でも出場できると考えられる。

加えて東急電鉄内においても、田園都市線外では現状でまだ改札機のQ SKIP対応が進んでいないため、利用者が「後払い方式」で他路線に乗り込んできたときの処理が煩雑になる。少なくとも渋谷駅で東横線、二子玉川駅で大井町線と連絡しているため、ここを経由して移動してくる利用者は少なからずいる。2024年春以降に「後払い方式」への対応をうたっているが、相互接続先の他社と連携しつつ、少なくとも東急電鉄内の全路線が対応するのを待っているという状況だ。

東急電鉄の路線図と今後の対応ロードマップ
発売される企画乗車券とQ SEATの開始

理由の2つめは、同じくレポートでも触れられている「マイクロツーリズム」を考慮したデータマーケティングへの応用だ。

コロナ禍以降は人流が変化し、従来のようなターミナル駅に巨大な商業施設を作って多くの利用者を呼び込むスタイルが必ずしも成り立たなくなっている。在宅勤務への移行などもあり、現状でなお東急電鉄を含む多くの鉄道会社では定期券売上がコロナ前の7割程度の水準に留まっており、おそらく今後も大きく回復することはないと考えている。

一方で、定期外の移動は活発化しており、こうした利用者が自宅沿線や比較的近距離のスポットへと出かける傾向が増え、こちらはむしろ以前に比べても増加傾向にあるという。これが「マイクロツーリズム」で、その動向をきちんと分析することで、適切な形でサービスを提供できるのではないかという。

例えば、どの駅を通過してどの商業施設にどれくらい滞在し、どのような買い物や食事を行なったのかを把握することで、より適切な割引乗車券の提供や各種キャンペーンによる誘導など、パターンに合わせてさまざまな提案が可能になる。これまで、こうしたデータマーケティングの世界では限られた商圏の中でしか機能してこなかった。例えば、交通系ICカードでは駅での移動やエキナカでの行動しか把握できないし、クレジットカードは買い物時の履歴を取得できるだけだ。ポイントプログラムなどの会員サービスにおいても、加盟店でのみ有効な手段だ。ゆえに、Q SKIPによる「マイクロツーリズム」を経て「移動」と「買い物」の両方の履歴をクレジットカードを通じて得られる仕組みというのは、これまでにない可能性を秘めていることになる。

交通系ICカードの部分を考慮しなければ、この「マイクロツーリズム」によってクレジットカードの「移動」「買い物」のみならず、東急がグループとして持っている「TOKYU ID」との連携が可能になる。両者を結びつければ一気に取得可能なデータの範囲は広がるが、今回はまずQ SKIPでの企画乗車券購入時に「TOKYU ID」でのログインが必要ということで連携が行なわれている。

2024年度中には東横線と大井町線で導入される「Q SEAT」の座席指定券購入サービスへの対応が予定されているが、こうした形で「TOKYU ID」と紐付くさまざまなサービスを拡充させていくことで経済圏を拡大していく。

“東急”では2021年に「Urban Hacks」と銘打ったデジタルプラットフォーム開発部隊を組織し、グループ全体のDX戦略を進めている。今回のQ SKIP導入の座組にあたっては、東急電鉄のみならず“東急”本体も参画しており、これは主に「マイクロツーリズム」から来る前述のデータマーケティングを利用した沿線開発を進める狙いがある。ある意味で、純粋に利用者の利便性のためだけではない理由で本格的に「オープンループ」の事業に取り組むのは国内では初のケースとみられ、その成果に期待が高まる。

マイクロツーリズムへの対応

新型改札の形状に関する考察

このように少なくとも1年程度は企画乗車券での利用がメインとなるが、Webサイト上でチケットを購入することで必ずQRコードが発行され、購入履歴が証明できることで、相互接続先各社での駅員にも認知が進み、今後東京メトロを含む各社が順次対応を進めていったとしても、比較的少ない混乱で徐々に移行が可能になるとみられる。そのため、当面は非接触対応クレジットカードの“タッチ”による乗車よりも、むしろQRコードで表示されるページの存在が重要になる。クレジットカードの乗車情報を読み取るのは専用の装置が必要になるが、QRコードの乗車券であれば目視でも対応できるからだ。

さて、問題となる改札機についてだが、東急電鉄では基本的に対応する駅の“すべて”の改札口でQ SKIP対応を行なっている。「出口によっては通過できない」ということを防ぐ狙いだ。この新型改札機の形状について、SNSなどで「魔改造された改札機のなれの果て」のような扱いをされていたのを見かけるが、これは仕組み上仕方ないということをフォローしておきたい。

今回のQ SKIPでは、新たに非接触クレジットカードを読み取るためのリーダー装置と、QRコードを読み取るためのリーダー装置が新たに追加される。車椅子などの利用者を想定した幅広の通路を持つ改札機への取り付けだが、この改札機にはもともと交通系ICカードのリーダーと磁気切符の投入口が付いており、合わせて4つの読み取り装置が1つの改札機に存在することになる。

まず交通系ICカードと非接触クレジットカードのリーダーを一体化できなかったのかという部分だが、これは非接触クレジットカードのリーダーの仕様を規定するEMVCoの縛りにより、“決済用の規格”に準拠したリーダーでなければならない。以前のレポートにもあるように、Suicaを含む日本の交通系ICカードは可読距離がこのEMVCoの仕様の倍以上に設定されており、これが素早く改札を通過できる秘密の1つになっている。FeliCaもType-A/Bも無線通信に使う周波数帯は13.56MHzで共通だが、もし交通系ICカード側の仕様をEMVCo対応に合わせたとすると、本来の改札としての利用が難しくなる。これがリーダーが2つに分かれている理由だ。

新型改札機に取り付けられた4つの読み取り口

また反応速度の話だが、一般にSuicaは200ミリ秒以内で、stera transitを使ったQ SKIPのシステムでは「250-350ミリ秒程度」(三井住友カードTransit事業推進部長の石塚雅敏氏)という。この速度は技術改良によりさらに短くなっているということで、改札の歩行距離を考えれば(通過に1秒強程度かかるとされる)、反応速度面での差はそれほどなくなってきている認識のようだ。

筆者の考えでは、前述の反応距離の問題もあり、ユーザーの体感速度で交通系ICの方がより短く感じているのではないだろうか。さらに、スマートフォンなどのモバイル端末であれば、物理カードの“タッチ”に比べて誘導電力が発生する“タイムラグ”が存在しないため、より反応が早くなる。

改札機における2種類の非接触リーダーが現在の配置になっているメリットとして、「仮に(クレカの)“タッチ”の反応時間がかかったとしても、改札を通過するための時間が交通系ICよりも長くなるため、それだけ処理時間の猶予がある」(石塚氏)という。顔認証ゲートなどでよく使われるテクニックだが、数十センチ程度とはいえ、多少の効果は期待できるようだ。

システムの詳細要件とMastercardへの対応

今回、田園都市線に投入された改札機では、すべてLTE回線を使った“外回り”でのネットワーク処理になっている。LTE回線を提供している携帯キャリアについては情報が公開されていないが、当面はこの形で運用して、2024年以降の東急電鉄全線への拡大に合わせる形で自前の回線を使った”内回り”方式へと移行していくという。

“外回り”とは決済データがPOS(今回の場合は改札機内部)を流れない方式で、そのまま処理センターへと直結される方式。すべてのデータを取得できるわけではないうえ、外部回線を使うためコスト上のデメリットがあり、今回はローンチを優先してLTEの“外回り”方式を採用したが、システムの本格展開に合わせて“内回り”へと切り替えていく形となる。“内回り”はデータ通信の自由度がある一方で、(クレジットカード業界のセキュリティ基準である)PCI-DSSへの準拠が必要になるため対応に時間がかかり、中小の小売店がPOSに導入する方式としてはコスト負荷が大きいため、あえて“外回り”を採用することも多い。

改札機へのオープンループ導入では国内初となった南海電鉄の場合、まずソフトバンクのLTE回線で実証実験をスタートし、後にダウンタイムが発生したことを受けてドコモ回線との二重化を行ない、現在では“内回り”方式の自前ネットワークを用いている。東急電鉄においても、最初はあくまで実証実験の扱いでLTEの“外回り”からスタートして、環境整備に合わせて“内回り”へと移行していくわけで、ほぼ同じコースをたどることになる。

LTEの“外回り”回線から自前の“内回り”回線への移行を説明する南海電気鉄道。2022年8月2日に開催されたstera transitの説明会にて

また、たびたび言及される国内でのオープンループの「Mastercard対応」だが、三井住友カードによれば「2024年春」というのが現状の最新ステータスで、当初のアナウンスよりは遅れているものの基本的に少し前の段階から変化していない。

だが複数の情報源によれば、「現状でMastercardがオープンループに対応するのは難しい」という。Mastercardは日本で独自の決済ネットワークを構築しているが、これを交通系対応するための改修が必要となる。ある情報源によれば、同社内での混乱もあり日本でのサービス対応の優先順位が下がっており、作業が遅々として進んでいないのが現状のようだ。そのため、別のネットワークへの乗り入れなどの手法を採らない限り、現状で示されているスケジュールに間に合わせるのは困難だとみられる。

なお、一部で「Visaを含む日本国内のオープンループ推進陣営がMastercard参入を妨害している」というコメントを何度か拝見したが、実情はまったく逆で、完全にMastercard社内の問題という認識だ。こちらも新たな動きがあった場合、改めてレポートしたい。

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)