鈴木淳也のPay Attention
第157回
「給与デジタル払い」の誤解と実際。労働者、○○Pay、銀行のメリット
2022年11月1日 08:20
厚生労働省は10月26日に開催した第181回労働政策審議会労働条件分科会において、給与を電子マネーで支払う、いわゆる「給与デジタル払い」制度導入を視野に入れた労働基準法の省令改正案を了承した。公布日は今年11月を予定しており、施行は2023年4月1日からとなる。
以前も説明した通り、この「給与デジタル払い」は雇用主が労働者の持つ資金移動業のアカウントに対して給与振込を可能とする。
現金払い、銀行口座振込に次ぐ第3の支払い手段となるが、法律での規制が銀行などに比べて“緩い”資金移動業者の倒産リスクなども鑑みて、同事業者の法的根拠となる資金決済法の監督省庁である金融庁のルールに加え、新たに厚生労働省が設けたルールで基準を満たす事業者のみに「給与デジタル払い」の許可を出す「2階建て方式」を採用する。
つまり、すべての資金移動業者が対象になるわけではなく、参入にあたって一定の基準を満たしたうえで認可を受けなければならない。加えて、現時点ではまだ具体的なルールが厚労省側からは提示されておらず、2023年4月1日の施行に向けて順次公開されるものとみられる。
複数の報道によれば、4月から申請受付を開始して、数カ月の審査を経て事業者登録が行なわれるとのことで、同制度の活用が始まるのは早くても来年後半以降になると考えられる。
「給与デジタル払い」への誤解と実際
「給与デジタル払い」についてはSNSや掲示板などでさまざまな意見を見かけるが、給与を受け取る「労働者側の視点」で同制度を見たとき、ポイントをまとめると下記のようになる。
・「給与デジタル払い」で支払われる賃金は現金化が可能であり、ポイントなどでは支払えない。また現金化に際しては「最低でも月1回は無料で引き出す」ための手段が提供されることが前提となる
・「給与デジタル払い」で利用する決済事業者のアカウントの残高上限は「100万円」まで。これを超えて振り込まれることはない。上限を超える金額についてはアカウントに紐付けた“銀行口座”などへの待避などの対策が盛り込まれる
・資金移動業者が預かる残高は、供託や保険などを通じて100万円を上限に保護される。そのため、倒産リスクに対しても残高は補償されることになり、厚労省は“2階建て”部分を通じて事業者の審査を行なう
・「給与デジタル払い」は労働者が希望したときのみに支払い手段として選択でき、雇用者がその手段や事業者を強制することは認めない。同意なく資金移動業者のアカウントへの支払いが行なわれた場合、労働基準法違反として申告に基づき監督署で適切に対応する
反対意見を見る限り「『○○Pay』のようなスマホ決済は信用できない。大事な給料をそのようなサービスに振り込んでほしくない」という声が多く見られるが、上記のポイントにもあるように現状の制度では銀行口座と資金移動業者のアカウントはリンクさせて利用することが前提のため、「どちらの口座に振り込まれるか」の違いでしかない。
仮に資金移動業者のアカウントに振り込まれても(最低でも月1回は)無料でATMなどを介しての現金化が可能であり、必要に応じてリンク先の銀行口座に資金を戻せばいい。自分が使いやすい口座に振り込んでもらうというのが制度本来の趣旨となる。参考までに省令の改正内容をまとめた資料を添付しておく。
ただし、労働者側の視点で見たとき現時点で問題がないわけではない。
具体的には「資金移動業者のアカウントを給与振込先としたとき、税公金や家賃を含む毎月の口座引き落としに対応できるのか?」「強制は労働基準法違反としながらも、実際には給与振込先の銀行口座の指定などで強制がまかり通っており、『給与デジタル払い』でも同様のことは起きないのか?」「資金移動業者のアカウントと銀行口座のリンクが前提であり、そもそもの制度の発端となった『外国人への給与払い』には向かないのでは?」という3つの問題が存在する。
1つめについては資金移動業から支払える仕組みが整備されつつあり、税公金についてもクレジットカードなどを含む複数のキャッシュレス決済手段の受け入れが進みつつある。
ある程度は時間が解決すると思われるが、そもそも資金移動業者のアカウントで保持できるのは100万円までであり、税金や各種引き落としを一括で行なった場合に上限に近付くケースが想定され、非常に使い勝手が悪い。また資金移動業のアカウントの性質そのものが「普段使いのための一時的な残高の置き場所」であり、給与口座として考えたとき、小まめに残高を調整しないと100万円の上限をすぐにオーバーしてしまう。
アカウントの残高が一定額を超えると自動的に銀行口座に戻す仕組みが求められるが、それならば最初から銀行口座に振り込めばいいわけで、あえて「給与デジタル払い」を使う意味が薄い。
3つめの「日本での銀行口座を作りにくい外国人」の存在も考慮すれば、これは「(100万円が上限の)資金移動業」の根本的な問題ともいえる。実際のところ、現状の使い勝手のままでは労働者側のメリットが薄いのだ。
そして2つめの「振込先口座の強制」だが、労働者側でメリットが薄いにもかかわらず、雇用者側があえて強制するようなメリットがあるのだろうか。
雇用者が「給与デジタル払い」を選択するメリットはあるのか?
実は、今回の制度で筆者が個人的に一番疑問に思っているのがここだ。
そもそも「なぜ給与は毎月1回払いなのか」という話があるが、事務的負荷の問題もさることながら、「銀行振込手数料」の問題が要因として存在する。
1件あたり少なくとも300円近い手数料がかかり、これを人数分、回数分こなすだけ負担が増える。労働者側の心理として、毎月1回で充分という人がいる一方で、週払いや日払いでの即金化を望む人も少なくないだろう。現金手渡しならともかく、銀行振込の頻度を上げにくい理由はここにある。
給与振込先口座の強制という話に先ほど触れたが、会社の持つ銀行口座と同一行内または同一支店内であれば銀行振込手数料を大幅に削減できることも、こうした慣習を生み出す一因になっている。
「給与デジタル払い」の場合、銀行口座とは違って同一の資金移動業者のアカウント内で送金を行なうことが求められる。つまりPayPayであればPayPayのアカウント同士、楽天ペイであれば楽天ペイのアカウント同士での転送となる。
場合によって会社が複数の資金移動業者のアカウントを持つ必要があるが、現状で同一サービス内の送金であれば無料であり、仮に後述の「法人向け送金サービス」が有料で提供されたとしても、銀行振込よりは低い手数料で済む可能性が非常に高い。振込手数料の削減に加え、日払いに近い「毎日が給料日(Everyday is Payday.)」も夢ではなく、福利厚生面でのメリットにもつながる可能性がある。
NHKの報道で「賃金の“デジタル払い” 来年度にも可能に メリットは? 課題は?」)という解説記事があったが、そこでは経費精算を「○○Pay」の電子マネー払いにすることで即時入金やコスト削減を実現した事例が紹介されている。
LINE Payやpringを経費精算に利用した事例はたびたび聞いているが、労働者側のメリットとしては振り込み頻度が上がったことが大きく、雇用者側では従業員の満足度を向上させつつコスト削減も実現した点で評価が高い。
ただ、これはあくまで経費精算の話であり、「給与デジタル払い」ではまた異なる問題が出てくる。
今回の「給与デジタル払い」について銀行を含む複数の関係者の意見の聴き取りを行なっていたところ、指摘として出ていたのが「給与振込処理の事務負担」だ。
現状で銀行振込は手法が確立されているため、例えば全銀フォーマットに従ってデータを流せば、給与振込は自動で処理される。こういった書式は人材管理や給与管理アプリケーションで標準対応しているため、雇用者側は指定のデータを期日までに用意すれば問題ないわけだ。
ただ前述のように、現状では「給与デジタル払い」に対応する資金移動業者の2階建て部分の指針を示したのみで、具体的な部分はまだ明らかになっていない。申請開始から認可を受け、こうした仕組みが整備されるにはさらに時間がかかるとみられる。資金移動業者は法制度に合わせてサービスを更新し、さらに全銀フォーマットのような仕組みに代わる「法人向け送金サービス」の“ツール”を改めて整備しなければならない。
そのため、仕組みとして実際に本格活用できるのは2023年後半どころか、さらに先になると筆者はみている。
資金移動業者、銀行のそれぞれが生きる道
こうした経緯もあり、PayPayに「給与デジタル払い」対応への意向を改めて確認したところ、下記のようなコメントが返ってきている。
「好意的に受け止めており、前向きに検討しています。一方で、現時点で当社の取り組みを含め具体的な決定は行なわれていません。表できるようになったタイミングでご報告します」(PayPay広報)
堅めの返事だが、意図をまとめれば「参入する意向はあるが、現時点でどう動いていいか分からず、何も発表できない」ということだ。実際のところ、2階建て方式での認可を受けるためのハードルは割と面倒で、例えば10月26日の分科会で挙がっていた新たな意見に「電話でのサポートがすぐにつながる体制を整備してほしい」というものがある。
銀行であればある程度当然な対応なのかもしれないが、インターネット企業でこの手の手厚いサポートが行なわれた前例は聞いたことがなく、実際のサービス提供にあたってはより細かい要望が挙がり、それらに応える必要が出てくるだろう。ただ、それでもなお資金移動業者がこの分野に参加するうま味は大きいと考える。
資金移動業者にとって最大のうま味は、「定期的で確実な入金“ソース”ができる」という点にある。
これまでスマートフォンで決済サービスを提供する事業者が最も苦労してきたのは、いかに本人確認をしたうえで銀行口座への紐付けを行ない、アカウントへの入金の仕組みを確立するかという部分だ。これでようやく残高が増えてスタート地点となるわけだが、定期的にサービスを利用させるにはまた別の努力が必要だ。
この循環を作れなければ、実質的には休眠アカウントとなってしまう。ところが「給与デジタル払い」対象アカウントとなり、毎月一定額が振り込まれるようになると、ユーザーは何らかの形で残高を使わなければいけない。100万円をはみ出たぶんは紐付けられた銀行口座に出さざるを得なくなるが、この“紐付け”自体が資金移動業者にとって大きく、アカウントがアクティブに利用される糸口となる。
つまり「給与デジタル払い」に利用された時点でアクティブアカウントとなるわけで、多少の苦労を背負ってでも制度に参入したいという事業者が出てくる。もっとも、ある程度の体力がないとサービスそのものを意地できない可能性が高いわけで、当面の間、参入事業者は多くても片手で数えられる程度で収まると筆者は予想する。
一方で、「給与デジタル払い」の利用が進むと割を食うとされるのが「銀行」などの既存の金融機関だ。従来であれば得られた振込手数料が減るわけで、事業的な悪影響につながる可能性がある。
ただ、前述のように本制度自体が不透明な部分があり、実際に仕組みがまわるようになって活用が始まるまで時間がかかると考えている関係者は少なくない。同時に、本制度で最大の“本末転倒”ともいえる「銀行口座との紐付けが必須」という部分の存在から、かえって銀行口座の利用が進むという見方もある。
銀行口座間の個人送金を容易にする「ことら」のサービスが始まっているが、これまで手間やコスト負担の象徴だった「銀行を使った送金」がより身近になり、今回の制度の登場で改めて銀行口座が見直されるのではないかという期待の声も聞こえてくる。
ただ、これはかなり前向きに制度を捉えた場合の話であり、キャッシュレス決済のようにこれまで現金払いが中心だった市場を新たに開拓するケースとは異なる。既存の給与払いという“パイ”を奪い合うレースなわけで、影響が皆無という考え方は“緩い”。
ある銀行関係者は、「給与デジタル払い」を含む銀行を取り巻く最近の業界の急激な変化を「“為替”という銀行本来の業務を見直すきっかけ」だと述べている。銀行の三大業務は「預金」「為替」「融資」とされるが、低金利環境において「預金」や「融資」を取り巻く環境が厳しくなり、これまで銀行がおろそかにしがちだった「為替」を改めて見直し、強化していくチャンスではないかという意見だ。決済サービスとしての窓口を資金移動業者に奪われ続けるのではなく、銀行自体が魅力的なサービスを用意して対抗していく。銀行アプリを強化するのが送金機能を付与する「ことら」であり、これにキャッシュレス決済などを組み合わせて利用場面を広げ、収益源を確保していくことが、銀行の生き残る道なのかもしれない。