鈴木淳也のPay Attention

第82回

カードで電車に乗る。オープンループが交通系ICに与える影響

難波駅から和歌山市駅までを結ぶ南海電鉄の特急サザン

南海電気鉄道、三井住友カード、QUADRAC、ビザ・ワールドワイド・ジャパンの4社は、2021年春より南海電鉄の一部駅でVisaのタッチ決済とQRコードによる入出場の実証実験実施を発表した。駅の改札機にVisaのタッチ決済が導入されるのは国内初のケースで、実証実験は2021年末までを通して実施される。

一般客を含めてどこまで実験対象が拡大されるのかは不明だが、実験の機材が組み込まれた改札機が設置される実施対象となる駅は2桁が見込まれており、かなり本格的なものとなる。

南海電鉄は関西国際空港と大阪市内とを結ぶ空港アクセス路線であると同時に、和歌山市までの阪南から大阪府南部エリアの通勤路線、そして高野山といった観光地を結ぶ複数の性格を持つ路線でもある。

Visaのタッチ決済を導入する一番の理由は、コロナ禍で現在ほぼ稼働が止まっている関空のインバウンド需要にあるが、2025年の大阪・関西万博に向けてさまざまな決済手段でのアクセス方法を整備し、都市交通での利用に耐えられるインフラとして確立させる狙いがある。

この南海電鉄の取り組みは、関西鉄道各社だけでなく全国の鉄道事業者が注目しており、これに続く形で間もなくスタートする福岡市地下鉄の「『EMVコンタクトレス』を活用した交通乗車スキーム実証実験プロジェクト」まで、FeliCaを使った交通系ICが席巻していた国内の運輸事情を大きく変える可能性を秘めている。

このクレジットカードやデビットカードなどを使った交通乗車の仕組みは「オープンループ」とも呼ばれるが、今回は南海電鉄ならびにWILLER TRAINSの運行する京都丹後鉄道の両プロジェクトでオープンループ導入の技術支援を行なったQUADRACの話題を中心に、このオープンループを国内導入するにあたってのメリットや課題について技術面から追いかけたい。

クラウドで処理するオープンループ

QUADRACの稼働済み事例の1つが、沖縄都市モノレール(ゆいレール)だ。ゆいレールでは過去に改札を刷新して以来、QRコード切符と地域向け交通系ICのOKICAのみ受け付けるという状態が続いていたが、昨年3月10日よりSuicaなどの「10カード」の片利用の受け入れを開始している

これは一種の「オープンループ」の仕組みと呼べるが、この10カードの処理に利用されているのがQUADRACのQ-COREというサーバー製品だ。「交通用決済と認証に特化したサーバー」ということで、クラウド上にあるサーバーで大量のマイクロトランザクションを処理することを想定しており、改札機はいわゆる「シンクライアント」として動作する。つまり、ゆいレールにおける10カードの処理はローカルではなくクラウド上で行なわれており、この暗号化や復号化の処理をいかに高速化するかという部分がチューニングにおけるポイントだったとQUADRACでは説明する。

沖縄都市モノレール(ゆいレール)
ゆいレールの県庁前駅の改札の様子

同社のもう1つの製品である「Q-move」は、モバイルアプリのQRコードやクレジットカードなどをリーダーに“かざす”ことで、改札の通過処理を行なうフロントエンドまでを含んだソリューションになる。主にMaaS利用を想定したものだが、この仕組みを利用して国内の鉄道事業者では初となる決済系カードを利用したオープンループを導入した事例が京都丹後鉄道となる。現在では入場と出場の2つのタイミングで“タッチ”した駅間の差分を計算して区間運賃がカードに請求される「都度運賃」方式を採用している。

京都丹後鉄道は利用の半数が通勤・通学客で、特に高校生の利用が多い路線となっているが、一方で天橋立など著名な観光地も複数抱えている路線でもあり、国内外の訪問客も多い。営業距離も比較的長く、移動距離によっては運賃が1,000円近い高額となり、その際は現金支払いよりはクレジットカードのような仕組みが使えた方が便利というのがオープンループ導入理由の1つとなっている。

また、交通系ICを導入するよりはオープンループの仕組みの方がコスト的に安価というのも理由であり、京都丹後鉄道の成功事例は、券売機の運用維持コストに頭を悩ませる他の地方交通の注目の的になっている。

オープンループを導入した京都丹後鉄道。宮津駅にて

そして、今回の南海電鉄だ。実証実験にあたっては、京都丹後鉄道と同じ決済系カードを使っての「都度利用」と、事前にモバイル端末で企画乗車券を購入してアプリ上のQRコード表示で改札する「事前購入」の2種類のサービスが提供される。

1月の取材時点では改札の最終デザインはまだ決まっておらず、「対象駅に新規に専用レーンを設置する」という話以外は未定で、今回の「決済系カード+QRコードリーダー」が内蔵された専用改札を設置するのか、あるいは既存の改札を一部潰して手前に簡易の専用リーダーを設置するのか、いずれの方式になるのか分からない。

だが1つ確実なのは、ICOCAやPiTaPaなどの交通系ICカードのリーダーと決済系カードの非接触リーダーは個別に用意されるという点で、少なくとも実証実験が完了するまで両者の統合はない。

コスト的な問題が大きいとは思われるが、重要な理由の1つは、Type-A/BとFeliCaのハイブリッドでの読み出しに対応し、かつ交通系のオープンループ利用に適合したリーダーが存在しない点にあると考えられる。

例えばVisaでは、交通系の処理に必要な電文をリーダーから上げるための基準を設けているが、少なくとも2020年時点で日本国内に該当するリーダーが存在しておらず、京都丹後鉄道のケースでは海外から別途調達を行なっている。リーダーそのものは市販の汎用品であり、国内調達も解決は時間の問題と思われるが、そうした理由もあってハイブリッドリーダーの導入にはもう少々時間がかかると推察する。

実際にこれが導入されるかは不明だが、南海電鉄のオープンループ実証実験で導入される改札のデザイン案の1つ(提供:三井住友カード)
改札の設置案はいくつかあり、専用改札機を設置しない場合、既存の改札機の手前に簡易リーダーを設置する(提供:三井住友カード)

さて、ここで毎回出てくるのが「日本の都市交通のラッシュをオープンループで捌けるのか」という話だ。以前のApple Payの話題でも触れたが、決済系カードのオープンループで規定される処理完了時間が500ミリ秒以内、Suicaの処理完了時間が200ミリ秒以内となっている。処理時間だけをみれば倍以上の差があるわけで、「改札が詰まる、だからSuica以外はありえない」という流れにつながる。

だが改札通過までの処理にかかる体感時間は「リーダーの読み取り範囲(処理を開始するタイミング)」「内部的な処理時間」「フラッパーが反応するまでの移動距離(改札レーンの長さ)」といった複数の要因が絡むため、一律に処理時間だけで決まるわけではない。今回の実証実験では、かなり長い期間を使ってこうした事象のチェックを行なうことが計画されているため、その点で非常に楽しみだ。

QUADRACによれば、要求される処理時間を満たすのにクラウドでのサーバーの処理に問題はなく、むしろ回線環境に依存するという。京都丹後鉄道のケースではLTEを利用しているが、当初は南海電鉄もLTEで回線を設置し、おそらくは後に有線ネットワークに移行していくことになると説明する。

回線品質で最も重要なのはレイテンシ(遅延)で、少なくとも改札機とクラウド上のサーバーの間を1往復するラウンドトリップ処理が発生するため、この間のラグがそのまま処理時間に反映される。逆にレイテンシが少ない回線であれば、Suica改札で求められるような高速なローカル処理は必要ない。

Q-COREの処理スピードはゆいレールで証明されているので、クラウド処理でも最低限同程度のパフォーマンスは保証されることが分かる。

ただ、京都丹後鉄道はローカル線のためトランザクションはさほど発生しないが、都市交通ではLTEの帯域で輻輳が発生する可能性があり、その場合は回線がボトルネックとなる。ゆえに「都市交通では線路に併設して光ファイバ網が整備されるため、この回線を利用することが望ましいかもしれない」(QUADRAC)。

柔軟な料金体系と改札方式

オープンループにおいてクラウド処理は重要だが、これがパフォーマンス的に問題ないことが証明されれば、いろいろ応用の芽が出てくる。以前に、JR東日本が新宿駅で行なったQRコード改札の実験を技術面から解説したが、「切符がクラウドで処理可能」ということになれば、QRコード切符も実装が容易になるし、さらには従来までSuicaに求められていたローカル処理が不要になり、Suicaの仕組みそのものを“クラウド化”することさえ可能になる。

つまり、残高や出入場記録はすべてサーバー側で管理されるため、「Suica」という仕組みは「ID」という役割を担うものでしかなくなる。

究極的にはFeliCaという仕組みにさえこだわらないでもよくなる日が来るかもしれない。

実際、Suicaが現在の2万円を上限とする残高チャージ方式を採用しているのは、このローカル処理に起因する部分にあり、現在はViewカードとの紐付けでオートチャージに頼っていたポストペイの仕組みの導入の容易さにもつながる。JR東日本がSuicaの残高管理負担に苦しんでいるという話も聞こえており、一連の技術的進化はSuicaの新しい姿にもつながっているように見える。

東京の新宿駅で実証実験が行われていたJR東日本のQRコード改札機

話をオープンループに戻すと、クラウド化によって新たに可能になったこともあるし、同時に課題として見えてくる部分もある。まず後者に触れると、京都丹後鉄道のケースではコスト削減の一環でオープンループを導入したものの、利用の半数を占める定期券はいまだ窓口で紙タイプのものを発行しており、都度利用においてもクレジットカードを持てない未成年層をカバーする手段がない。解決策の1つとして、三井住友カードによれば小学生以上の利用が可能なプリペイドカードを発行する計画があり、地元ユーザーを中心に利用を期待する。また高校生についてはデビットカードが利用可能な年齢となるため、クレジットカードと合わせて「定期券の機能」を持たせる方向で考える。

クラウド処理の場合、定期券に該当するカードかどうかはサーバー側で判定できるため、定期券が購入された時点であらかじめ必要な情報をクラウド上に上げておけば有効期限も含めて確認できる。これはQRコード切符も同様だが、切符として判定される決済系カードは改札に“入場”した瞬間に“移動中”のフラグが立つため、キセルや重複利用も難しい。

さらにいえば、スマートフォンなどを使ってオンライン上での購入処理も容易になると思われる。

ただ問題は、通学定期は購入時に学生証の照合が必要になるためオンライン利用が難しいことと、定期切り替え時期の窓口業務の負担減をどのように実現するかが課題となる。

また、決済系カードではSuica定期のように券面に定期情報が印刷できないため、「それが定期である」との証明が難しい。例えば車内検札のようなことがあった場合、サーバーと照合しない限り「キセルを行なっていない」という証明ができない。極端な例だが、京都丹後鉄道の福知山-宮津間のように区間の大部分がトンネルというルートを通るローカル線の場合、LTE回線での車内検札は非常に難しく(駅は地上のため問題ない)、このあたりが課題となる。

旅客運送約款の問題でもあるが、事業者ごとに対応が異なるため、一律な対応ではない。また、紛失時にどうやって以前の定期を無効化し、再発行するのかといった課題もあり、定期まわりでやるべきことは多い。

京都丹後鉄道の宮福線では福知山駅を出発してしばらくすると、トンネルが連続する区間に突入する

一方で、楽しみな部分が柔軟な運賃体系だ。南海電鉄のケースでは1日券などの企画乗車券がQRコードで発行されるが、アプリで気軽にこういった乗車券を購入して移動が可能になる。わざわざ窓口に出向いたり、券売機に向かう必要はない。Visaによれば、いまのところオープンループの仕組みを採用している事業者で「事前購入(Pre-Purchase)」の仕組みを採用しているのは世界初のケースとのことだが、とかく企画乗車券(「Season Ticket」などと呼ばれる)の種類の多い欧州などでは、オープンループの広がりとともに導入されるケースが増えてくるとみられる。

現状で企画乗車券の有効範囲は南海電鉄のみとなるが、今後事業者をまたいでの利用が可能かについては「可能だがチャレンジな部分」(QUADRAC)という。関西では複数の鉄道事業者が相乗りしてMaaSの研究開発を進めているが、事業者をまたいでの決済処理や料金の分配など、解決すべき問題は多い。また1日券のような地域周遊券の場合、これまではそれに参加する交通事業者が一定割合で売上金の配分を行なっていたが、今後クラウド化によりリアルタイムで移動情報が取れるようになれば、実際の輸送実績に合わせて配分比率を変えることも可能だと三井住友カードでは指摘している。

さらに、英国のロンドン交通局(TfL:Transport for London)で導入されている料金キャップ制も導入が可能になるとみられる。

TfLでは1日あたりに一定額以上の利用があると(だいたい3.5回乗車)、それより先は追加請求が行なわれなくなる「料金キャップ」という制度が存在する。1日乗車券とほぼ同様の効果が得られるため、事前購入のような仕組みがなくとも手軽に同等のサービスが得られる事業者と乗客の双方にとってメリットのある制度だ。

実際にロンドンで地下鉄乗車を試してみれば分かるが、請求は乗車ごとの都度ではなく、1日単位でまとめて行なわれる形になっており、ポストペイドの仕組みと相性がいい。これ以外にも時間帯で運賃を変更させるなど、柔軟な料金体系がクラウド化により可能だが、日本における運賃は事前の認可制のため、こういったダイナミックプライシングに現状で対応できないという問題がある。

ただ、料金キャップにしろダイナミックプライシングにしろ、「後で請求額を決める」というのは交通系のクラウド化によってこそ為し得るもので、技術の進展とともに制度が柔軟に変化していくところに期待したい部分だ。既存の交通系ICカードの場合、その場での引き落としは可能であっても、後で料金を決定したり、「多く引き落としたから、割引分を差し戻す」といった仕組みは実装しにくい。

鈴木 淳也/Junya Suzuki

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)