鈴木淳也のPay Attention

第38回

モバイルPASMO導入の背景で変化しつつある「FeliCa」の事情

DOCOMO Open House 2020における「Future Life by おサイフケータイ」のブース。実質的にはソニーブースと同等

話題は1月下旬に東京都内で開催されていた「DOCOMO Open House 2020」から。ここでは'19年12月にNTTドコモとソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズの2社によって発表されていた「おサイフケータイのタッチレス対応」に関する実証実験のデモンストレーションが紹介されていた。

「タッチ&ゴー」が特徴のおサイフケータイが「タッチレス」という表現を使うのも面白いが、その実は「NFC」の最大の特徴である「読み取り機に近付けることで“支払い”や“アクション”を起こす」という仕組みを使うことなく、おサイフケータイ技術のコアである「FeliCaのセキュアエレメント(SE)」を認証用のIDや情報の保管媒体として用い、通信部分はNFC以外の技術を用いて「近付ける」つまり「タッチ」のような“動作”を行なわなくても、おサイフケータイと同等のサービスが利用できるというもの。

おサイフケータイというか、FeliCaという技術がもともと「NFC+セキュアエレメント(SE)」と前提に考えれば、NFCを用いずに「SEこそがFeliCaだ」といわんばかりの新展開を発表すれば、そもそもの前提条件が崩れるように思える。

NFC技術の特徴として、アンテナ間の距離と磁界強度が反比例の関係にあることが挙げられる(距離がゼロにはならない)。アンテナ同士、言い換えればデバイス(FeliCaカードなど)とリーダーの距離をある程度近付けるほど磁界強度が上がり、誘導電流が発生してデバイスが活性化しやすくなる。つまり、「タッチする」という行為そのものがカード情報の読み取りを可能にし、離せばカードに電流が流れなくなるため通信できない。

このタッチ動作が「ユーザーが何かアクションを起こしたい」という意思を明確化し、支払いであったり、改札でのゲート通過を可能とする。一方で、この「タッチ」という動作は必ず当該のデバイスを読み取り機に近付けることを必要とし、これが応用範囲の幅を狭める結果にもつながっていた。この“くびき”を新しい発想で乗り越えようというのが「おサイフケータイのタッチレス対応」の意味するところだ。

NFCを使わない「おサイフケータイ」

昨年2019年11月に共同通信が「JR東、タッチレス改札導入へ」のタイトルで記事を配信したが、これは「Suica」に相当するチケット情報を保持したスマートフォンを持ってゲートを通過すると、ゲートに向けて照射されるミリ波を用いることでスマートフォンがカバンやポケットの中にあろうが、タッチ動作なしで必要な情報を取り出してゲートをそのまま通過できるというもの。

ミリ波の指向性を応用した仕組みだが、現時点でミリ波を直接サポートするスマートフォン端末はほとんど存在しないため、あくまで実験的な試みであり、JR東日本自身も「タッチレスゲートの研究開発を進めているのは確かだが、ミリ波の利用を決定したわけではない」と述べていた。つまり重要なのは「タッチレス」の部分であり、通信方式そのものにそれほどこだわりはないというのが実際だ。

今回、DOCOMO Open House 2020において「おサイフケータイのタッチレス対応」をテーマにしたブースの名称は「Future Life by おサイフケータイ」だったが、ここでの展示内容は主に2つ。昨年12月5日付けで発表された買い物シーンにおける「タッチレス」対応のデモと、デジタルキーを使ったカーシェアの仕組みだ。

買い物シーンにおけるおサイフケータイの「タッチレス」対応の例

前者は仕組み的には「UWB(Ultra-Wide-Band)」と「Bluetooth」を用いており、この組み合わせで「位置計測」と「データ通信」を行なっている。NFCでは近付いて通信することが前提なので距離計測は必要ないため、あとは純粋に通信速度を稼げればいい。UWB+Bluetoothの場合、対象となるデバイスの位置からそれが対象とすべてデバイスかを判定しつつ、Bluetoothによる接続を確立して通信を行なう。

以前まで、屋内での位置情報測定はBluetoothビーコンを用いることが多かったが、さまざまな理由から細かい距離計測や精度に関して問題があり、最近では他の技術、特にUWBを組み合わせるケースが増えている。

UWBのパルスを組み合わせることで正確なデバイスの位置関係が分かるため、あとはそれがBluetoothで通信すべき相手かを判定するだけでいい。今回のケースではショッピングに応用するため、レジの目の前に立っているかどうかが判定基準となり、同意をもって決済を行なう。その際、買い物客はわざわざデバイスを手にする必要はない。

NFCを使わないFeliCa(おサイフケータイ)の通信の仕組み
位置測定にUWBを使うため、多くのスマートフォンは標準のハードウェアでサポートしていない。今回のケースでは外部デバイスの補助を必要とする

ただ、現状でUWBの統一した通信仕様は存在しないため、専用のハードウェアならともかく、今後標準化されたマルチデバイス環境では不都合が生じる。そのため、UWBを用いた位置情報測定の仕組みを標準化し、業界全体で盛り上げていこうと「FiRa Consortium」が立ち上がっている。今後FeliCaがUWBを標準仕様の1つとして取り込んでいく場合、こうした標準化のための業界団体との連携は欠かせないものとなる。これが現在おサイフケータイならびにFeliCaで起きている変化の1つだ。

FiRa Consortiumのページ

ID化のトレンドの中で遍在化するSE

これ自体も興味深いのだが、「デジタルキーを使ったカーシェアの仕組み」というのは、昨今の「Suica」など交通系ICカードがたどりつつある最新トレンドを反映したものだ。

このサービスはいわゆる「キーレスエントリー」と呼ばれるもので、車の解錠に物理的な“鍵”ではなく、FeliCaカードやスマートフォンなどに記録されたセキュアなデジタル情報を用いる。

このデジタル鍵は、“車”と“鍵”が1対1で対応しているのではなく、必要に応じて紐付けを変更できる。今回のデモではマスターキーがスマートフォン上に登録されており、ここに特定のFeliCaカードを読ませることで“紐付け”を行ない、デジタルキーとして機能させることができる。

この紐付け情報はクラウド上で管理されるため、時間がきたり、何かトラブルがあればいつでも解除できるうえ、複数のカードに同時に紐付けを行ってもいい。ドア解錠や車の起動など、割り当てる機能を細かく制御することも可能だ。特にカーシェアのように時間で利用者が変化する仕組みに向いており、今回もその点が強調されている。

デジタル“鍵”を使ったカーシェアの仕組み
マスターキーの情報を持つスマートフォンにFeliCaカードをかざすと、そのカードがデジタル鍵となる
デジタル鍵となったFeliCaカードは、有効時間内であればいつでも車のドアの解錠や起動が可能

このサービスが意味するのは、今後さまざまなものがデジタル化された世界で「FeliCaをどう活用していくのか」という話と、「ID」という概念に対する考え方だ。IDの部分に触れると、今日多くの人々は免許証やパスポートなど、さまざまな身分証を所持し、必要に応じて自身の証明としている。

ただ、既存の紙やプラスチックをベースとした身分証は盗難や紛失の危険がつねにつきまとうし、必ずしも使い勝手がよくない。必要に応じて提示のためにわざわざ取り出さなければいけないし、相手が目の前にいなければコピーした証明書を送付したり、あるいは画像で取り込んでモバイルアプリを通じて送信したりと、いろいろ工夫しなければいけない。もしデジタルIDが正規の身分証として認められるのであれば、いろいろ応用範囲は広がる。

マスターとなる身分証はそのまま大事に保管しておいて、“コピー”となるデジタルIDをスマートフォンや各種デバイスに登録して持ち歩けば、より使い勝手はよくなるだろう。同様に、公的な身分証に限らず、カーシェアのためのデジタルキーやホテルのルームキー、訪問先ビルで行われるミーティングのために一時的に発行される入管用IDなど、デジタルIDの必要な場面はさまざまだ。

決済方面ばかりが注目されたおサイフケータイやモバイルウォレットだが、本来はこうしたさまざまな“鍵”やIDの可搬性や安全な保管がゴールの1つであり、ようやく本来のルートに向けて歩み出したといえるかもしれない。重要なのは“ID”であり、特定のデバイスに依存するものではない。日々の生活を取り巻くインフラにおける、さまざまな事象の“ID”化は、“クラウド”という存在が有効活躍されていなかった20年の期間を経て技術的制約を取り払い、少しずつ浸透してくることになるだろう。その最たるもので、一番目につく形で現出しつつあるのが「Suica」なのではないかと筆者は考える。

3月18日についにスタートしたモバイルPASMO

これは筆者の個人的な意見だが、3月18日にスタートして話題になった「モバイルPASMO」もまた、このトレンドに触発されて登場したものでないかと予想する。別誌の記事中でモバイルPASMOが導入された背景について少し解説しているが、PASMO協議会に参加するある1社がモバイル導入に必要なコストをほぼすべて負担する形で導入を押し切ったという話がある。

ここで注目すべきは「なぜ、いまこのタイミングでモバイルPASMOなのか」という部分で、「一種の焦り」(関係者)のようなものがあるという。SuicaやFeliCaを取り巻く情勢が急速に変化しつつあるなか、「従来ながらの仕組みでモバイルPASMOをスムーズに導入するにはいましかない」という考えが、PASMOを運用する事業者側に少なからずあったという。PASMOは参加企業で合意を得るという政治的ハードルがある。それをすべてスキップしてでも導入を急いだ背景には、「嵐の前の静けさを狙う」事情があったのではないかというのが筆者の考えだ。

鈴木 淳也/Junya Suzuki

国内SIerでシステムエンジニアとして勤務後、1997年よりアスキー(現KADOKAWA)で雑誌編集、2000年にプロフェッショナル向けIT情報サイト「@IT」の立ち上げに参画。渡米を機に2002年からフリーランスとしてサンフランシスコからシリコンバレーのIT情報発信を行なう。2011年以降は、取材分野を「NFCとモバイル決済」とし、リテール向けソリューションや公共インフラ、Fintechなどをテーマに取材活動を続けている。Twitter(@j17sf)