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伝説の太刀「膝丸」と「髭切」が揃い踏み! 東京国立博物館「大覚寺展」

開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺 -百花繚乱 御所ゆかりの絵画-」

東京国立博物館で、特別展「旧嵯峨御所 大覚寺」が、1月21日から3月16日の会期で開催されている。伝説の兄弟刀「膝丸」と「髭切」が同一ケースで展示されるほか、総延長22mにわたって展示される狩野山楽の《牡丹図》など、見どころを紹介していく。

【展示会概要】

展覧会名:開創1150年記念 特別展 旧嵯峨御所 大覚寺 -百花繚乱 御所ゆかりの絵画-
会期:2025年1月21日(火)~3月16日(日)
会場:東京国立博物館 平成館
料金(当日券):一般 2,100円/大学生 1,300円/高校生 900円
料金(前売券):一般 1,900円/大学生 1,100円/高校生 700円
※会期中、一部作品の展示替えを予定

なお、全4章の展示室のうち、襖絵や障子絵などの障壁画が並ぶ第4章のみ撮影が可能(動画は不可)。以下は、主催者の撮影許可を得たうえで掲載している。また以下に掲載する展示品の所蔵は、記載がないものはすべて京都・大覚寺。

会場案内図。ピンク色の第4章は撮影可

伝説の太刀「膝丸」と「髭切」が揃って展示

有名寺院のひしめく京都エリアの中で、大覚寺と聞いてピン! と来る人は、時代劇ファンでなければ多くはないかもしれない。

その由来は「旧嵯峨御所 大本山 大覚寺」という正式名称からも分かるとおり、1,200年以上前の平安初期に第52代の嵯峨天皇が、京都の西北にあたる場所に離宮を建立したことにはじまる。

嵯峨天皇は、真言宗の開祖として知られる弘法大師空海の勧めに従い、般若心経を書写し、五大明王を信仰しはじめた。ちなみに空海が高雄山寺(のちの神護寺)で密教の灌頂を行なったのは嵯峨天皇の時代であり、空海に高野山や東寺(教王護国寺)を下賜したのも、この嵯峨天皇。また、当時の筆が上手な3人の能書家として、空海や橘逸勢とともに三筆に加えられている。こうしたことから、簡単な言葉で記せば、嵯峨天皇と空海は友達……または親友と言ってよい関係だっただろう。

平安時代の明円作の《五大明王像》
平安時代の明円作の《五大明王像 大威徳明王》
明円作(安元3年・1177年)の《五大明王像 軍茶利明王》
室町から江戸時代にかけて造仏された《五大明王像》

その後の貞観18年(876年)に、嵯峨天皇の長女・正子内親王が、今の言葉でいえば義子にあたる恒寂入道親王を開山として、離宮嵯峨院を改めて大覚寺を開創した。この時から1,150年後にあたるのが、来年の2026年ということになる。

今展の第1章から第3章は、その後も続く同寺と皇室や皇族、または織田信長や豊臣秀吉などとの深いつながりをしのばせる、寺宝の数々が展示されている。

第1章の展示風景

そして第3章の最後に展示されているのが、これを目当てに来館する人も多いだろう、京都・大覚寺蔵の《太刀 銘□忠(名物 薄緑<膝丸>)》と、京都・北野天満宮蔵の《太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)》。

京都・大覚寺蔵の《太刀 銘□忠(名物 薄緑<膝丸>)》と、京都・北野天満宮蔵の《太刀 銘 安綱(名物 鬼切丸<髭切>)》。いずれも重要文化財

2振の太刀は、清和源氏の祖・源経基の嫡男である源満仲が天下守護の太刀を求めて作らせたと伝わっている。これらの太刀を受け継いだのが、誰もが知る金太郎(坂田金時)などを伴って鬼退治へ出かけた、源満仲の嫡男・源頼光だ。

この時の鬼(酒呑童子)を退治するのに使われたのは、また別の太刀だが、金太郎とともに鬼退治で活躍した渡辺綱(わたなべつな)が、鬼女に襲われて空へ連れ去られたことがあった。渡辺綱は、北野天満宮の上空まで来た時に、貸し与えられた今展展示の「髭切」で鬼女を切り落としたという。この時から「髭切」は「鬼切丸」と呼ばれるようになった。

その後も様々な伝承を生みつつ、2振は名前を変えながら源頼朝や源義経などの源氏に受け継がれていった。そんな2振が、今展では同じケースで隣り合って展示されている。明るい照明のもと、展示ケースの表からだけでなく、裏に回ってじっくりと見られるのも嬉しい。

京都・大覚寺蔵の《太刀 銘□忠(名物 薄緑<膝丸>)》
後ろからも見られる貴重な機会

豊臣秀吉に勧められて武士から絵師になった狩野山楽

源氏重代の太刀とともに、今回の大きな見どころが、襖絵や障子絵などの障壁画の数々。現在、同寺では約240面の障壁画を14年間をかけて修理している。そうしたメンテナンスを終了した障壁画のうち、前後期あわせて123面が出品されている(前期100面、後期102面)。

圧巻なのは、全18面が総延長22mにわたって展示されている狩野山楽の《牡丹図》。スケールの大きな演出が施されていることもあり、展示室に入ると、その美しさに息を呑んでしまった。

狩野山楽作の《牡丹図》が展示されている第4展示室の1室。写真右に見えるのが《牡丹図》

徳川政権家の江戸時代に、幕府の御用絵師として隆盛した狩野派。その中で「狩野山楽さんって誰……」と、記憶になくても仕方がない。筆者も「狩野永徳の弟子」または「狩野山雪の義父」ということで覚えていた。ただし、彼が画家としてかなりの実力を備えた人だと分かるのが、「狩野山楽」という名前だ。実は彼は狩野一族の出身ではない。

生まれたのは永禄2年(1559年)。時は戦国時代の真っ只中。翌1560年には、織田信長が桶狭間で今川義元を討ち取っている。その10年後の元亀元年(1570年)には、浅井長政が織田信長との同盟を破棄し、天正元年(1573年)には織田信長に敗れて浅井氏は滅亡。

その浅井氏の配下の1人だったのが狩野山楽の父であり、山楽は父亡き後、豊臣秀吉に武士として仕えることになった。さらに豊臣秀吉の勧め(命令)により狩野永徳の門下に入り、優れた画技をみせたことで、狩野の姓を授けられたという。

さて、長い長い《牡丹図》の目の前をゆっくりと歩いて見られる機会は、そうはない。金地の襖に実物よりも大きいのではないかとすら思える、牡丹が華やかに描かれている。そして鮮やかな色彩でありつつ、決して華美とは感じない。また牡丹だけでなく、水墨画を思わせる岩も見られ、鳥の親子が描かれてもいるが……これはおそらく鶉(うずら)だろう。

重要文化財《牡丹図(部分)》狩野山楽
重要文化財《牡丹図(部分)》狩野山楽
重要文化財《牡丹図(部分)》狩野山楽

豊臣秀吉に気に入られた狩野山楽は、秀吉の側室の淀君やその子の秀頼からも発注を請けたという。浅井長政の三姉妹の長女である、淀君には、特に目をかけられていたとしても不思議はない。

だが、秀吉亡き後に徳川家の世になると、豊臣派と目された狩野山楽は、武家の出身だったこともあるのか、幕府から睨まれて苦しい時期を過ごすことになる。そのためか、狩野永徳などの本家が本拠地を江戸へ移した後も、山楽は京に残り京や大坂などでの活動することになる。

狩野永徳に認められた山楽だが、その後は京狩野の祖と言われるようになる。とはいえ、要は傍流と見なされてしまったとも言えるだろう。公式カタログには「最後の桃山絵師」と、狩野山楽を称えている。なぜ大覚寺に狩野山楽の作品が多いのかは分からないそうだが、今展では、そんな狩野山楽の《牡丹図》のほか、《紅白梅図》や《松鷹図》など様々な作品が見られる。

重要文化財《紅白梅図(部分)》狩野山楽

狩野山楽のほかにも、渡辺始興(しこう)という、江戸中期に活躍した画家の作品も揃っている。これまた超有名人ではないのだけれど、円山応挙が渡辺始興に私淑していたという話もあるほど、江戸の美術史においては重要な画家だ。

その渡辺始興の複数作品を、一気に見られるのも今展の隠れた魅力。特に障子の腰板に、様々な表情の19羽の兎が描かれた《野兎図(のうさぎず)》などは、ここでおすすめしなくても、会場で自然と足をとめてしまうはずだ。

重要文化財《野兎図(部分)》渡辺始興
重要文化財《野兎図(部分)》渡辺始興

ということで、開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺 -百花繚乱 御所ゆかりの絵画-」の見どころを紹介した。寺社関連の展覧会へ行くといつも思うのが、いつかその場所へ行ってみたいということ。

大覚寺には一度だけ行ったことがあるが、そこにあった本物の障壁画を細部まで見た後には、また行きたいと思う気持ちが募った。京都は観光客で賑わっていると聞くが、筆者もまた機会を作って訪ねたいと思う。