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法然とは何をした人なのか? 特別展「法然と極楽浄土」東京国立博物館
2024年4月20日 20:40
東京国立博物館では、特別展「法然と極楽浄土」が、4月16日から6月9日までの会期で始まった。浄土宗の開宗から850年の節目に、ゆかりの至宝が集まり、浄土宗の鎌倉時代から江戸時代までが辿れる展覧会。
概要
特別展「法然と極楽浄土」
会期:2024年4月16日(火)〜6月9日(日)
会場:東京国立博物館 平成館
入場料:一般2,100円、大学生1,300円、高校生900円
なお、展示室内の撮影は基本禁止となっているが、香川県の法然寺が所蔵する《仏涅槃群像》のみ撮影が可能。以下は、主催者の撮影許可を得たうえで掲載している。
法然とは何をした人なのかが分かる第1章
この展覧会は、鎌倉仏教の筆頭として教科書にも挙げられる浄土宗の開祖、法然(ほうねん)が主人公。高校などの授業で日本史を選択していれば、テスト前に「浄土宗…法然…浄土宗…法然…」と、何度も口ずさんだ記憶があるだろう。
第1章では、その法然とはどんな姿形で、どんな生涯を過ごしたのかを、法然上人の像や、京都・知恩院蔵の国宝《法然上人絵伝》をはじめ、ゆかりの深い全国の寺院が所蔵する、絵巻を通して紹介していく。
さて、法然(ほうねん)こと法然房源空は、平安時代末期の1133(長承2)年に、今の岡山県で生まれた。平安時代というと、貴族が和歌を詠んでいた、優雅で平和な時代だったというイメージもあるだろう。だが一方で、平安時代中期には平将門や藤原純友などの反乱があり、後期に入ると刀伊の入寇などをはじめ平忠常の乱、そして奥州の前九年と後三年の役などの紛争が続いた。さらに法然が生まれた平安時代の末期には、源平の合戦や飢饉や天災なども起き、多くの人が実生活で苦しんだ時代だったと考えられている。
末法の世とも言われた、そんな苦しい時代に生まれた法然自身も、9歳で父を亡くし、幼い頃から寺に預けられている。そして13歳前後で天台宗の比叡山に登り、15歳の時に出家。1175(承安5)年の43歳の時に、中国・唐の浄土教の僧、善導が著した「観経疏(かんぎょうしょ)」を読み、念仏を唱えれば誰もが救われると確信する。すぐに比叡山を出た法然は、人々に専修念仏(せんじゅねんぶつ)を勧めるようになった。
法然の伝記を描いた絵巻は多くあるが、その中でも最もよく知られているのは、京都 知恩院にある、鎌倉時代に制作された国宝の《法然上人絵伝》。今展では、巻替えをしながら通期で見られる。
開宗後の法然は、有力貴族である九条兼実や、その娘で後鳥羽天皇の中宮である任子などから帰依される。その関白・九条兼実の求めによって記されたのが、浄土宗=法然とセットで覚えさせられた《選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)》だ。かつて意味も分からずにタイトルを覚えた、その書を目の前にすると、少し感慨深い。
同書は、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名前をとなえる、「称名念仏」が最も重要なことと記している。法然の直筆とされている冒頭の21文字を見ると、歴史上の存在だった法然が、一気に身近に感じることだろう。
法然の教えは、じょじょに広がっていくものの、順風満帆だったわけではない。新興勢力には、必ず既存の勢力が反発するもの。法然72歳の時には比叡山の延暦寺の衆徒が、74歳の時には奈良の興福寺が、法然が勧めていた専修念仏の停止を訴えた。その時に法然が門弟に対して守るよう求めた、7つの禁止事項が《七箇筿制誡(しちかじょうせいかい)》として残っている。
他宗の教えや阿弥陀仏以外の仏を誹謗中傷することなどを禁じている、この誓約書とも言うべき同書には、法然以下の門弟190名の署名が確認できる。その中には、後に浄土真宗の祖とされるようになる、親鸞(しんらん)の当時の名も見られる。
阿弥陀如来に迫る第2章
法然は、とにかく阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏」の6字をとなえれば、貴族や武士だけでなく、男女も関係なく、遊女などを含む庶民も救われると説いた。第2章では、そもそも阿弥陀仏(阿弥陀如来)とは、どんな姿形で像が作られ、絵に描かれていたのかが紹介されている。
特別展を担当した、東京国立博物館の瀬谷愛さんは、阿弥陀仏がどのような仏様で、どうして法然が称名念仏や専修念仏を勧めたのかを、次のように語った。
「浄土宗の中心的な信仰対象は、極楽浄土に住む阿弥陀如来です。阿弥陀如来は、菩薩であった時に48の誓いを立てて、全ての人を救うことを誓いました。この誓いを達成しなければ、私は悟りを得られないし如来にもなれないと。逆説的ですが、その後、阿弥陀“如来”になったということは、これらの誓いを全て守ったとも考えられるわけです。
その48の誓いの18番目に、『私の名前を呼んで、私の国に生まれたい(極楽往生したい)と願う人は、誰でも救われるようにする』というのがございます。この1項目を重要視した法然らは、念仏を唱えれば誰でも極楽往生できると説いたのです』
こうした法然の教えが広がったこともあり、様々な阿弥陀仏が描かれ、または作られていった。特別展では、なかでも浄土宗の寺院に伝わった阿弥陀如来像が展示されている。
《早来迎(はやらいごう)》と通称される国宝の《阿弥陀二十五菩薩来迎図》は、鎌倉時代の制作で京都の知恩院に伝わったもの。「来迎」とは、念仏をとなえれば、阿弥陀如来が迎えに来てくれるということ。念仏する者のもとへ、観音菩薩と勢至菩薩を先頭に、阿弥陀如来などが来迎している様子を表している。同種の図案はほかにも多く描かれ、その中でも最も知られている絵の1つだ。
ちなみに《早来迎》は、2019年から2022年にかけて解体修理が実施された。通常は非公開で、今回は修理後の初公開となる。展示は、5月12日まで。
構成としては次の第3章に属す、奈良・當麻寺(たいまでら)蔵の国宝《綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)》も、第2章のエリアで見られる。これは阿弥陀如来を中心とする浄土世界が、糸で織った綴織で表現されている。その圧倒的な大きさに驚くものの、かつて鮮やかだっただろう色彩は、ほとんど見えない。
ただし同作を模写または模造したものをはじめ、多くの「當麻(当麻)曼荼羅」が日本全国にある。それらを見れば、今回5月3日までの前期展示で見られる国宝の《綴織當麻曼陀羅》に、何が描かれているのかも想像できる。
例えば、5月8日〜6月9日の後期展示となる、同じく奈良・當麻寺が所蔵する江戸時代に制作された《當麻曼陀羅図(貞享本)》は、その代表作。その他に同館の本館でも、鎌倉時代の《当麻曼荼羅図》が展示されているので、特別展の観覧前後に確認しておくとよいだろう(5月19日まで展示)。
関東の浄土宗寺院の宝物がズラリと並ぶ第4章
第3章の「法然の弟子たちと法脈」では、九州や鎌倉、そして京都で、法然の称名念仏の教えを広める活動を行なった、弟子たちの様子がうかがえる。
その流れは三河で、松平氏による浄土宗への帰依につながった。そして末裔である徳川家康が、増上寺を江戸の菩提所とし、知恩院を京都の菩提所と定めたことで、教団の地位が確固たるものになっていった。第4章では、東京の増上寺や茨城の常福寺をはじめとした、関東の浄土宗寺院の宝物が多く見られる。
そして第4章のクライマックスとして控えているのが、幕末の絵師、狩野一信が描き、東京の増上寺に奉納した《五百羅漢図》。同作は、500人の羅漢を5人ずつ100幅に描いたもの。今展では前後期に各12幅が展示される。
最後に、撮影可能なスポットとして、冒頭でも少し記したとおり、香川県 法然寺の《仏涅槃群像》が展示されている。
今回の特別展は、法然や浄土宗のことを知ってから会場へ行かないと、感動したり心が揺さぶられるような展示品は少ないように感じた。その中で、この《仏涅槃群像》は、あまり知らずにフラッと行っても「これはすごい!」と感じやすい、数少ない展示品の1つだろう。
仏涅槃とは釈迦が亡くなった(入滅した)時の様子を表現したもの。中央に釈迦が横たわり、その周りを釈迦の死を悼む人や仏、動物などが取り囲んでいる。その多くは「涅槃図(ねはんず)」として、絵画で表現されている。
今回の《仏涅槃群像》は、その涅槃の世界を、ほぼ実物大の立体の大小あわせて82軀で表現。特別展では、そのうちの26軀が見られるのだ。
特別展「法然と極楽浄土」は、浄土宗に関連する人たち以外には、少しハードルが高い展覧会かもしれない。だが、行く前に例えばWikipediaなどで、法然の事績を辿っておくと、より興味深く展示品を見られるだろう。特に国宝《法然上人絵伝》をはじめとする、法然の一生を描いた絵巻コーナーは、知っていると「おぉ、たしかに幼年の法然(勢至丸)が、放った矢が、父の敵の眉間に刺さっている」とか、「これが夢の中で善導さんと出会った情景か」などと、内容が理解できて、より楽しめる。
いずれにしても、浄土宗の至宝が全国から集められた特別展。6月9日まで東京国立博物館で開催された後、10月8日〜12月1日は京都国立博物館で、2025年の10月7日〜11月30日は九州国立博物館へ巡回する。いずれも浄土宗との拠点がある場所で、それぞれ地域性のある展示品が見られるという。一度は足を運んでおきたい。