ニュース
上野の森美術館にモネの約60作品が集結! 「モネ 連作の情景」
2023年10月28日 09:00
上野の森美術館にて「モネ 連作の情景」が、2024年1月28日までの会期で開催されている。毎年、国内のどこかで展覧会が開催されて話題となる、印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ。今展では、モネの多くの作品の中でも「連作」に着目。国内外40館以上から60点以上を厳選した「100%モネ。」の展覧会だ。
会期:2023年10月20日(金)~2024年1月28日(日)
会場:上野の森美術館
入館料:
平日(月~金)
一般 2,800円/大学・専門学校・高校生 1,600円/中学・小学生 1,000円
土・日・祝日
一般 3,000円/大学・専門学校・高校生 1,800円/中学・小学生 1,200円
印象派以前のモネ作品を展示する第1章
松尾芭蕉は「日々旅にして 、旅を栖(すみか)とす」と『奥の細道』の冒頭に記して旅へ出かけ、葛飾北斎は生涯で90回以上も引っ越した“引っ越し魔”として有名だ。「モネ 連作の情景」では、彼らと同じようにたびたび拠点を移し、旅をしながら絵を描いていったモネの足跡をたどりながら、作品を鑑賞できる。
モネは1840年11月14日、産業革命真っ只中のフランス・パリで生まれた。これは、七月革命と呼ばれる市民革命から10年後、そして王政が終焉を迎える二月革命の8年前のこと。
5歳で、イギリス海峡を望むフランス北西部、ノルマンディ地方のル・アーヴルへ転居し19歳までを過ごす。ル・アーヴルでは、風景画家のウジェーヌ・ブーダンと出会い、屋外で油彩画を描き始める。当時、油彩画はアトリエで描くものであり、自然光の下で油彩画を描くというのは、画家たちの間で一般的とは言えなかったようだ。
19歳でパリへ出ると、画塾でカミーユ・ピサロやアルフレッド・シスレー、ピエール=オーギュスト・ルノワールなど、後の「印象派」の仲間と知り合う。また、フランスの画家にとっての登竜門だった、政府主催の展覧会「サロン」へ、精力的に応募し始めた。
1870年に普仏戦争が始まると、モネは兵役を逃れるためにイギリスやオランダへと移り、翌年にはフランス・ノルマンディ地方のアルジャントゥイユへ戻ってきた。そんな30歳前後までの作品が並ぶのが、第1章の「印象派以前のモネ」。ここでは、サロンに落選した《昼食》をはじめ、モネの初期作品が見られる。
《昼食》に関して言えば、「これも、あの印象派のモネの作品なの?」と思うほどに、モネっぽさがない。いわゆるフワァっとした雰囲気が感じられない、アトリエで描かれたのだろう作品だ。
「第1回印象派展」の頃の作品が並ぶ第2章
「なんか違うなぁ」と思いつつ、第2章「印象派の画家、モネ」の部屋へ移ると、少しモネ度が上がる。「そうそうモネって、こういう感じだよね」という作品が出てくるのだ。
というのも、第2章で展開されているのは、1871年にパリ北西のアルジャントゥイユで暮らし始めてからの作品だからだろう。旧態依然としたサロン入選への思いを吹っ切った後の作品で、セーヌ川沿いのヴェトゥイユへ、1878年(37歳)に拠点を移し、各地を訪れて描いた作品だ。
この頃、モネにとってエポックだったのは、1874年(34歳)の春に「第1回印象派展」を仲間たちと開催したこと。モネが1872年にル・アーヴルへ帰郷して描いた《印象、日の出》が発表した展覧会だ。この時に展示されたモネたちの作品に対して、美術批評家のルイ・ルロワが茶化して付けた「印象主義」という言葉が、モネの仲間たちのグループ名となる。
37歳のモネが、家族とともに移り住んだセーヌ川沿いのヴェトゥイユは、パリから北西に60kmに位置する。ここでモネは、雨の日でも水の上で絵が描けるよう、アトリエ舟を手に入れた。イーゼルとカンヴァスを外へ持ち出して、自然光の下で、眼前に広がる情景を感じたままに描いていく。また柔らかく明るい色彩と筆致(タッチ)によって描いていくという手法が、固まっていった時期だ。
同じ被写体やテーマを描くようになった頃の第3章
ヴェトゥイユへ拠点を移したモネは、同時に、イギリスやオランダ、その他にもフランス国内のノルマンディ地方やブルターニュ地方、地中海沿岸やイタリアなどにも足を伸ばしていた。
産業革命というエネルギーやモビリティ革命により、パリを中心とした鉄道網が19世紀半ばには整備されてきたことが大きく関わっている。以前よりも気軽に地方へ足を伸ばせるようになり、創作の自由度が高まっていたのだ。
モネは、気に入った場所へ何度も足を運び、その情景を季節を変えて、または時間を変えて描いていった。第3章「テーマへの集中」は、第2章と同じ時期に描かれた作品ではあるが、より「連作」の萌芽を示すものが並ぶ。
《積みわら》などの有名作が見られる第4章
モネは、1881年(41歳)にセーヌ川沿いのポワシーに転居したあと、1883年(42歳)には、同じくセーヌ川沿いのジヴェルニーに移り住む。
モネが1890年前後(50歳前後)に、この地で実現したのが、今展覧会のテーマでもある「連作」の手法だ。展覧会の解説によれば、連作とは「描く対象(モティーフ)と視点を限定し、異なった天候や時間の変化を描き分け」たものをいう。
モネの「連作」は、ジヴェルニーの自宅近くで秋になると目にする、積みわらを描いた作品が、学術的には最初のものだと言われている。展示室に並ぶ、いくつかの《積みわら》の作品を見ると、「あぁ〜、これは見たことあるよぉ〜」と、思う人も多いだろう。
展示されている作品は、描いた時期が異なるものだが、実際のモネは、一度に複数のカンヴァスを用意して、日が昇り沈んでいくなかで、その陽の光を受けて変化する積みわらを次々と描いていった。実物を目にすると、モネが描こうとした、目には見えないその場の雰囲気や空気感が、それぞれの作品に描かれているのが分かるだろう。
そして1891年(51歳)に、今回展示されている《積みわら、雪の効果》をはじめとする15点の連作をパリの画廊で発表。モネの名声が確固たるものになったのは、この時のことだ。
この「連作」の手法から、《ポプラ並木》や《ルーアン大聖堂》、《セーヌ川の朝》などの作品が生まれていく。また拠点としていたジヴェルニーやフランス国内だけでなく、イギリスのロンドンへも何度か訪れ、《チャリング・クロス橋》や《ウォータールー橋》などの連作を、数年にわたって描いた。
クライマックスの第5章「睡蓮とジヴェルニーの庭」
クライマックスである第5章「睡蓮とジヴェルニーの庭」の展示室に入ると、まず目を引くのが、多くの人が既視感を懐くだろう《睡蓮の庭》だ。展示室が空いていれば、まっすぐに同作の前に進むべきだが、おそらく常に人を惹きつけているはず。だが同展示室には、《睡蓮の庭》のほかにも、日本人の感性にぴったりとハマる多くの作品が見られる。
例えば、50歳前後の時に描かれた《ジヴェルニーの草原》は、福島県立美術館が所蔵する作品。筆者がイメージするモネらしい柔らかいタッチで描かれているのは、タイトルにもある通り自宅近くの草原だ。それなのに、おそらく多くの人が、描かれた情景に懐かしさを感じるのではないだろうか。モネの作品に原風景を懐く……それが、モネの日本での人気の理由の一つなのかもと感じた。それにしても、こんなに良いモネの作品が福島県という比較的に近い場所にあったのかという、発見も楽しい。
さて、1883年(42歳)にセーヌ川沿いのジヴェルニーに移り住んだモネは、前述の通り、1891年(51歳)に発表した積みわらの連作で成功を収めることになった。経済的に安定したモネは、借りていた家と土地を購入し、庭造りを始める。その「水の庭」では睡蓮を栽培し、日本風の太鼓橋をかけたなど造園に熱中していくのだ。
晩年になると旅する機会は減り、絵のテーマは近所や自宅の庭が中心となっていくが、最晩年まで絵を描き続けたことは言うまでもない。そしてモネが78歳、1918年に描いた作品が、ハッソ・プラットナー・コレクションの《睡蓮の庭》だ。
1890年後半、モネが50歳後半から描き始めた、ジヴェルニーの庭の睡蓮は約300点あるという。「視力の衰えとともに筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占めていく。最晩年の作品はモネの視覚的想像力の深い表現となった」と記された解説を読みながら、展示されている《睡蓮の庭》を改めて見る。とても明るくて柔らかくて優しい。
モネの作品ばかりが約60点ならぶ展覧会を巡り終わってみると、清々しい気持ちになった。
開催されている上野の森美術館は、たいていモネの作品が何点か展示されている国立西洋美術館から、徒歩5分ほどの場所にある。もっとモネの作品や、モネ以外の印象派の作品も見てみたくなったら、美術館をハシゴするのも良いだろう。