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東京国立博物館の「古代メキシコ」展 神々の土偶・石偶が大集合!
2023年6月23日 08:00
上野の東京国立博物館では、「古代メキシコ マヤ、アステカ、テオティワカン」展が、6月16日(金)~9月3日(日)の会期で開催される。
展示のタイトルを読むと、日本での時代区分として縄文→弥生→古墳時代のように、初めにマヤ時代があり、それからアステカ時代、テオティワカン時代が続いたような印象を持ってしまいがち。
しかし、下の年表で見ると分かるとおり、マヤ、アステカ、テオティワカンは、必ずしも順番に栄えた時代や文明ではない。マヤは紀元前1400年頃から1697年まで続き、テオティワカンは紀元前1000年頃から550年頃まで栄え、アステカは1325年から1521年までの時代に存在した。
つまり、時代は「古代」だけではなく、スペインによる侵攻までの中世にまで及ぶうえに、「マヤ→アステカ→テオティワカン」という順序だったわけでもない……ということは、初めに踏まえておきたい。
タイトルの件はさておき、今回の特別展では、次のような構成になっている。
第一章:古代メキシコへのいざない
第二章:テオティワカン 神々の都
第三章:マヤ 都市国家の興亡
第四章:アステカ テノチティトランの大神殿
以上の構成に沿って、古代メキシコの歴史を、特別展で見ていこう。
会期:2023年6月16日(金)~9月3日(日)
会場:東京国立博物館 平成館
開館時間:午前9時30分~午後5時 ※土曜日は午後7時まで
※6月30日(金)~7月2日(日)、7月7日(金)~9日(日)は午後8時まで
※総合文化館は午後5時閉館
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日、7月18日(火)
※ただし、7月17日(月・祝)、8月14日(月)は開館
なお展示室内の全作品の写真撮影が可能だが、フラッシュ撮影や動画の撮影は禁止。撮影画像は、個人利用に限る。
メキシコと言えば……の骸骨は、テオティワカンから始まった?
シベリアからアメリカ大陸に人類が進出したのは、紀元前13000年頃と言われている。そうした狩猟採集民族が、今のメキシコあたりで、後に主食となるトウモロコシの栽培を始める。そしてメキシコ湾岸に定住生活者が集まり始め、紀元前1500年頃に興ったのがオルメカ文明だ。
ちなみに日本の同時期は縄文時代。まだ稲作が一般的ではなく、木の実を主食にしていたと考えられている頃だ。
特別展ではこのオルメカ文明を、その後に興る諸文明のルーツとして、プロローグである第一章で紹介。古代メキシコの人々が、生活に深く関わる自然に対して、強い関心を示し、同時に畏怖の念を示し続けたことを感じさせる。
オルメカ文明に続く古代メキシコの諸文明の中で、今回の特別展で取り上げるのが、展示順にテオティワカン、マヤ、そしてアステカだ。
展示は、前100年から550年に栄えたテオティワカンから始まる。テオティワカンは、死者の大通りに沿って月のピラミッドと太陽のピラミッド、それに羽毛の蛇ピラミッドの3つの巨大建造物があることで知られる。
展示会場に入ると、まず目に飛び込んでくるのが太陽のピラミッドの巨大パネルを背景にした《死のディスク石彫》。これは同ピラミッド付近から出土したもので、日没後の太陽をかたどったものと言われる。
テオティワカンの人々は、太陽は西に沈む(死ぬ)と、地下世界をさまよい、夜明けとともに東からのぼる……つまり再生すると考えていたという。石彫の中央の髑髏は、死んだ太陽を表している。
死の大通りの最奥部にある2番目に大きな建造物が、月のピラミッドだ。紀元100年頃に建てられ、その後50年おきに6回、ひと回り大きなものへと増築されていったことが分かっている。
続く羽毛の蛇のピラミッドは、金星を象徴すると考えられている。四方を無数の羽毛の蛇神の石彫や、シパクトリ神の頭飾りの石彫で四方を飾られていた。羽毛の蛇神は金星と権力の象徴で、シパクトリ神は時(暦)の始まりを象徴する創造神だという。
羽毛の蛇のピラミッドの正面にある大広場からは、ピラミッドに向けて伸びる、深さ15m、長さ103mのトンネルが2003年に発見された。トンネル内部は盗掘されていたが、それでも多くの遺物が残っていたという。特別展では、その一端が垣間見られる。
死の大通りと、そこに面したピラミッドのほか、テオティワカンには居住地も広がっていた。またテオティワカン文明の他都市から見つかった遺物も少なくない。
特別展のハイライトは「赤の女王」と土偶・石偶
テオティワカン文明の展示室を抜けると、次はマヤ文明への入り口だ。マヤ文明は、紀元前1500年にメキシコ湾岸にオルメカが興った後の、紀元前1400年から1697年まで続いた、メキシコのユカタン半島を中心に栄えた。一つの都市や王朝があったわけではなく、時代とともに都市国家が興亡した。
ここでも天体や暦、さらにマヤ文字が記された石彫などが見られる。だが、筆者が最も目を奪われたのは、当時の様々な人々をかたどった多くの土偶だ。土偶が好きな人には、堪らないラインナップといえ、ここでかなり多くの時間を過ごすことになる。
土偶に限らず、マヤ文明の遺物は芸術性が高く、豊かな表現力と独自のスタイルに惹き込まれる。そのため、歴史的にどんな意味があるものなのかを知らなくても、石や土器に描かれた絵を見て回るだけでも楽しい。また神や人の顔が表現されている大きな香炉台も魅力的だ。
マヤ文明の石彫には、絵だけでなく文字が記されたものも多い。その文字も、まだ絵文字に近いもの。何が記されているか解説文を読まなければ皆目分からないが、見ているだけでも興味深い。
そんな文字が刻まれた様々な石板が、マヤのパレンケ遺跡から出土している。《96文字の石板》もその一つで、歴代の王の即位が記されているという。マヤの人々は、優れた書跡を芸術品として愛好し、本作もその最高峰に位置する。
マヤ文明を紹介する第三章の展示室を進んでいくと、ついに! という感じで現れるのが、パレンケの13号神殿から出土した「赤の女王」の展示エリア。まるで発掘されたパレンケ遺跡の13号神殿の、墓室なのか石室なのかへ入っていくかのような演出がされ、期待が高まる。
メキシコでは、この赤の女王が誰なのか? で論争が巻き起こっている。なお「赤の女王」の名称は、パカル王墓の隣にある神殿から見つかったことと、発見時に真っ赤な辰砂(水銀朱)で覆われていたため。女王と名付けられたものの、遺体のDNA分析をしたところ、王とは血縁関係にないことが分かったという。
いずれにしても、ケースの周りには観覧者が殺到するだろう。今回の展示の中で、最も譲り合いの精神が求められる場所だ。
思ったよりも巨大だった「鷲の戦士像」
特別展の最後を飾るアステカ文明は、14世紀にメシーカ人がテスココという湖の上の小島に築いた、首都のテノチティトランが中心地。王国として成立したのは1428年で、スペイン人に侵攻されて1521年に終焉する。
《メンドーサ絵文書(複製)》は、スペイン制服後の1541年頃に、先住民が記録した絵文書。岩に生えたサボテンの上に鷲がとまるのを見て、ここに都市を築いたというテノチティトラン創設の場面が描かれている。現在のメキシコ国旗の中央にも、このアステカの創世神話に基づく絵文字が配置されている。
第4章では、そんなテノチティトランの中心部に建てられた大神殿、テンプロ・マヨールとその周辺から出土した遺物が並ぶ。
まず驚くのは《鷲の戦士像》。事前に特別展のパンフレットで見て、忘れずに見ておきたいものの一つにしていたのだが、そもそも見落とす心配は全くなかった。見ずにはいられないような大きさと展示方法だったからだ。
同像は、王直属の「鷲の軍団」の高位の戦士、または英雄的な死を遂げて鳥に変身した戦士の魂を表していると言われている。開いた鳥のくちばし部分から顔が覗く姿は異様で、高さ170cmの大きさと相まって、ひと目見たら忘れられないインパクトがある。
そのほか雨の神・トラロク神など様々な神をかたどった印象的な壺や像が、会場に並んでいる。
まとめとミュージアムショップ
スペイン人の侵攻後、アステカ文明(王国)は1521年に、マヤ文明は1697年に滅ぶ。アステカのテノチティトランは、ほとんどを破壊され、マヤの諸都市の多くは森の中に埋もれていった。その後の約300年、メキシコ全土はスペインの植民地となる。
それでも古代メキシコの文化と伝統、祀られていた多くの神は、現代にも息づいている。そうした神々をかたどった像や石板などが多く展示された、特別展「古代メキシコ マヤ、アステカ、テオティワカン」の会場は、パワースポットの中にいるようだった。
そして、古代メキシコの文化が現代にも引き継がれている様子が分かるのが、最後の特設ミュージアムショップ。カラフルな品々が並び、一気に陽気なメキシコの雰囲気となる。あれも欲しい、これも欲しいと、物欲を抑える理性が崩壊しないよう気をつけたい。