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「標本バカ」が歴代「標本バカ」を紹介 国立科学博物館「日本の哺乳類学の軌跡」

国立科学博物館で開催中の「日本の哺乳類学の軌跡」

上野公園と言えば、おそらく日本で最も博物館や美術館が密集したエリアだろう。そんな中で子供たちに人気の国立科学博物館(以降:科博)は、実は自然史及び科学技術史の研究機関として位置づけられている。

そんな同館は、常設展では観られない貴重な標本資料を多く所蔵する。現在開催されている企画展「科博の標本・資料でたどる日本の哺乳類学の軌跡」は、そんな秘蔵品を“蔵出し”されているのだ。

とはいえ展示名が難し過ぎて興味を抱けそうにない……なんて思う人もいるだろう。だが、この企画展の監修者は、同館の動物研究部・脊椎動物研究グループ・研究主幹……もう少し柔らかく言うと「標本バカ」(ブックマン社)の著者として知られる、川田伸一郎さんだ。

つまり、展示名こそ「科博の標本・資料でたどる日本の哺乳類学の軌跡」としているが、これは「標本バカが、日本歴代の標本バカを紹介する」という企画展なのだ(ちなみに展示内容では、前述の著作『標本バカ』について、一切触れられていない)。

同企画展の内覧会では、川田さんの詳細な解説を聞くことができたので、今回はその川田さんの解説を中心にレポートしていく。展示会を観る前や観た後に読んでもらえると、より面白く感じられると思う。


    【展示会概要】
  • 会場:国立科学博物館(東京・上野公園)
  • 会期:4月25日(火)~8月16日(水)
  • 休館日:月曜日、6月27日(火)〜30日(金)
    ※ただし、6月12日(月)、7月17日(月)、24日(月)、31日(月)、8月7日(月)、14日(月)は開館
  • 観覧料:一般・大学生630円/高校生以下と65歳以上は無料
  • 開館時間:9:00~17:00、GWと8月11日(金)~8月15日(火)は18:00まで

標本バカのレジェンドを一挙に紹介する第1章

今年(2023年)は、日本の哺乳類学や植物学などに多くの影響を与えた、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが来日してから、ちょうど200年にあたる。さらに、その100年後の1923年は、日本に哺乳類の学会が初めて設立された年にあたる。

「その同じ1923年には、なんと(剥製が同館で常設展示されている)忠犬ハチ公が生まれ、その他いろいろあって、その50年後には僕(川田さん)が生まれました。色々と周年が重なっているので、これはちょっと何かやらなければと感じて作ったのが、今回の企画でございます」(川田さん)

明治時代に設立した科博には、当時から引き継がれてきた多くの標本が収蔵されているという。その多くは、一般に公開されている上野公園の博物館ではなく、研究用として茨城県つくば市にある同館の筑波研究施設に保管されている。

「ですから、上野公園の博物館に来られる方々の目に触れる機会がない、そういう普段見られない標本を中心に展示して、この哺乳類の100年、200年の歴史を振り返ろうという構成になっております」(川田さん)

まず第一章「日本における哺乳類学の始まりと発展」の展示を見ていくと、シーボルト来日以前の江戸時代に、日本人がどんな風に生き物を観察していたかも展示されている。例えば、ネズミの飼育書である「珍玩鼠育草(ちんがんそだてくさ)」や、クジラ類に関する専門書「鯨志(げいし)」だ。

「『珍玩鼠育草』は、こうやってネズミを飼育しましょうね、ということが書かれています。また、色んな色のネズミが紹介されていますが、これらをどういう色のやつとどういう色のやつを掛け合わせると、どんな色の子どもが産まれますよといったことが、かなり細かく書かれています。実は今でも遺伝学の世界では注目されているんです」

動物研究部・脊椎動物研究グループ・研究主幹の川田伸一郎さん

クジラについても同様で、ヨーロッパ式の学問が入る以前から、日本人によって研究されていた。

「例えばクジラも、資源としての価値がすごく高い生き物ですから、どんな種類がいて、どんな生活をしていて、どこにどういうものがいるのかなどが、江戸時代の当時から、ちゃんと詳しく記録していたんですね」

クジラやネズミに限らず、江戸時代の日本人も、どんな動物がいるのかを、よく調べて記録していた。宇田川榕菴(ようあん)によって、「Mammalia」という言葉が「哺乳動物」と訳されたのも江戸時代のことだ。

江戸時代に「Mammalia」を「哺乳動物」と訳した、宇田川榕菴(ようあん)

ただし、あるルールに則っていないと、欧米においては、学問として認知されないと川田さんは言う。

「そもそも(現在の日本で一般的な、いわゆる欧米式の)学問は、分類することから始まります。その分類学の父とも呼ばれるのが、カール・フォン・リンネさんです。動物分類学や植物分類学というものの根本を作った人ですね。動物などをグループに分けて、名前をつけていくという決まりを作った人です。

このリンネさんが作った分類学のルールに従って命名されていく、その時が、日本の哺乳類が初めて研究されることになったと、考えられるのだと思います」(川田さん)

そんなリンネのルールで、動物を研究していくというきっかけを、日本で作ったのが、ちょうど200年前に長崎にやってきた、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトだ。

日本の動植物を西欧に紹介したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

「シーボルトは、日本に西洋医学を伝えた人として有名です。でも博物館的な視点で語ると、日本の動植物や鉱物などをたくさん集めて、オランダに持ち帰った人なんです。今でもオランダのライデン市には、大きな自然史博物館がありますが、その館長のテミング(Coenraad Jacob Temminck)などが、シーボルトが持ち帰った動物標本を調べます。そして、まとめられたのがここに展示されている『ファウナ・ヤポニカ(Fauna Japonica)』という本です。日本語では『日本動物誌』です」(川田さん)

「ファウナ・ヤポニカ(Fauna Japonica)」

この本では、日本の哺乳類が、初めて欧米式の方法で研究されて、多くは名前が付けられる……ということが行なわれる。川田さんによれば、おそらく日本の哺乳類が、シーボルトらによって初めて世界に開かれたという。

「つまり、シーボルトが持ち帰った資料を元に書かれた『ファウナ・ヤポニカ』が、日本の哺乳類学の始まりの始まりになるのではないかと僕は思っています」(川田さん)

そして、日本人による動物研究に、欧米式が取り入れられて哺乳類学として発展していくのが、明治時代になってからのこと。

「明治時代になると、日本から外国へ行って勉強する人も出てきます。田中芳男さんもその1人で、今放送中のNHKの朝ドラ(『らんまん』)では、この人をモデルにした……いとうせいこうさん演じるキャラクターが登場しました。そんな田中さんは、日本に博物館を作った人としても、よく紹介されます。この科博も、ある意味では田中義夫さんが作ったと言っていいと思います」

日本の哺乳類学の最初期に活躍した田中芳男

田中芳男は1874年に「動物学初篇哺乳類」を出版。同書で、欧米式の分類に基づいて哺乳類を解説した。

「この田中さんなどが、外国で書かれた動物学に関する文章を翻訳したり、こういう学校教育用の掛け図(上写真の『獣類一覧』)を編集したりして、日本では知られていないものも含めて、いろんな生き物のことを、日本の大人や子供に紹介していこうということを始めました。それが、日本の博物館の始まりみたいなものですね」(川田さん)

外国で書かれた論文などが、雑誌で紹介されるようになるのも、明治の初期の頃。展示では、1877年に東京帝国大学で出版された「学芸志林」を紹介する。パネルで紹介されているのは、「鼠ノ有用説」というタイトルが付けられた論文を記した、同誌の1ページ。

「僕がかつて、一番古い哺乳類に関する論文ってなんだろうなと調べた時に、この『鼠ノ有用説』が一番古いんじゃないかなということで、論文などでも紹介しています。書いたのは乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)という人。英語学者ですけど、曽祖父が『解体新書』の著作で知られる杉田玄白です。乙骨さんは、当時外国で出された雑誌を翻訳して、日本の雑誌にどんどん寄稿しています」

だが、こうした大学が刊行していた雑誌は、その後に廃刊していく時期が訪れた。川田さんは、学会活動のようなものが始まり、より専門的な雑誌が求められるようになったからだと推測。哺乳類学の場合は、より専門的な雑誌として「動物学雑誌」が一例として挙げられている。

「東京帝国大学の最初の動物学教授に、アメリカから日本に来た、モースさんがいます。その人が東京動物学会を作り、その10年後の1888年に発刊されたのが『動物学雑誌』です。東京帝国大学を中心にして、動物学の研究が、少しずつ自立していくんです」

ディスプレイには、一匹のサルの標本と「動物学雑誌」が展示されている。標本は、1898年に台湾で採集されたもの。サルの隣に置かれた同誌の1ページを見ると、全く同じ個体のサルの標本が載っていることが分かる。

動物学の研究が少しずつ自立していく
「動物学雑誌」で紹介されている個体と同じ、サルの標本

「開いてあるページの、サルの隣にある記事では、ネコが逆立ちしている写真が載っているんですよね。これの方が面白いんじゃないのかなって思うのですが、そういう余計な情報も色々ありますので、そういうのも楽しんでいただきたいです」

逆立ちするネコが載っている

東京帝国大学での動物学研究が盛んになった時期だが、哺乳類についての、日本人による独自研究は進んでいなかったという。その代わりに、日本に来た外国人が欧米へ標本を送り、そうした標本をもとに、積極的に日本の哺乳類を研究した人物が現れた。大英自然史博物館のオールドフィールド・トーマスだ。

イギリスの大英自然史博物館のオールドフィールド・トーマス

「トーマスさんなどが、日本に採集人を送り込んで、北海道からずうっと九州まで、標本を網羅的に採集させました。さらに朝鮮半島や中国の方まで送り込んでいるんですね。そうしてイギリスへ送られてきたものを調べて、日本人が哺乳類を新種記載する前に、ほとんどをトーマスさんが(新種記載を)やっちゃうんです」

ここで展示されているのは、貿易商のアラン・オーストンが採集人を雇って収集した標本や、リチャード・ゴードン=スミスが採集した標本。

そして、日本人が新種記載をした一番古い記録は、1901年(明治34年)のこと。以降、1920年くらいまでの間に、6名の日本人が新種として名前を付けた。ただし、それらの名前は、現在、学名としては全く使われていないという。

「なぜかというと、この頃の日本には哺乳類を分類するための文献が絶対的に不足していたからです。特に外国での情報が不足していたんです。だから、例えば佐々木中二郎さんは、割と一般的にいるネズミを、新種として『ハタネズミ』という名前を付けました。付けたのですが、既に20年くらい前に、フランス人によって新種記載されていました。佐々木さんは、同じものに別の名前を付けちゃったということです。そういう場合には、一番古い学名が適用されるのがルールなんです」

日本人による、ちょっと残念な新種記載の事例。記載時に使われた標本は、いずれも常設展で展示されている

ただし上述の6例のうち、波江元吉の新種記載は、現在も論争になっている。そのため、同氏が記載した名前が復活する可能性もあるという。

「新種記載に使われた標本を、タイプ標本と言いますが、波江さんが新種記載に用いた標本というのが、まさにこれです。普通はタイプ標本を展示することはないのですが、今回はメモリアルな展示ということで、お示ししております」

波江元吉が新種記載時に用いたケナガネズミの剥製標本

同じ1910年代になると哺乳類学は、新種記載以外の分野でも、研究が盛んになっていく。展示では青木文一郎という人が紹介されている。

「青木さんは東京帝国大学で、初めて哺乳類を専門に研究した学生です。理学士の学位を持っていますから、東京大学で哺乳類研究者として初めて学位を授与された人物ということになります」

東京大学で哺乳類研究者として初めて学位を授与された青木文一郎

「この頃、まだ情報が希薄な時代だったというのは、先ほど言いました。そこで青木さんは、これまで日本の哺乳類学が、外国でどう研究されてきたかを徹底的に調べ直しました」

青木文一郎の論文と一緒に展示されている、同氏による標本

そうして動物学の研究が活発になり、次の時代……1920年代に登場するのが、岸田久吉(きゅうきち)や黒田長礼(ながみち)だという。

「実は、岸田さんはクモとかダニが専門で、黒田さんは鳥類の研究で有名な先生でございます。ところが当時の人は、わりとなんでも屋さんで、哺乳類なども研究していたんです

このあたりの時代には、日本の国内外で採集された標本をもとに、彼ら自身……つまり日本人が研究して、新種や新亜種などが記載されていきます。岸田さんなどは、何十種類もの哺乳類を記載した、とんでもない人……なのですが、実はちょっと問題があり、今では学名として採用されていないものも多いです。ただし分かりやすいところでは、北海道のエゾオオカミは、岸田さんが新種記載したものです」

一方の黒田は、台湾の哺乳類の研究を最初に行なった人だという。新種記載の面では、キクチハタネズミという台湾のネズミがある。

「その岸田さんや黒田さんの先生にあたるのが、渡瀬庄三郎さんです。この人を中心に、哺乳類を研究するグループを作ろうじゃないかということで、1923年(大正12年)に日本哺乳動物学会が出来ます。これが日本で最初に設立された、哺乳類学会ということになります。今からちょうど100年前のことです」

日本哺乳動物学会の中心メンバー

その渡瀬だが、現在では「マングースを沖縄に放した人」ということで、有名になってしまっているという。

「渡瀬先生は、日本哺乳動物学会もですが、トカラ列島のある島とある島を境界として、生き物の相……メンバーが全然違いますよという生物地域部『渡瀬線』を示すなど、とんでもない業績がいっぱいあるんですけどね。

残念ながら、むしろ(現在は特定外来生物に指定されている)マングースをインドから持ってきて、沖縄に放したことでよく知られる人です。ここでは、インドから渡瀬先生が送った手紙を展示しています。また、インドで採集した、マングースの20数個体の剥製標本のうち、渡瀬先生が2つを科博に持ってきたんです。その1つを今回はここで展示していますが、もう1つは日本館の2階(同館の常設展)に展示されているんです。ついに、2つが同時に展示されることになったか……と感慨深いです(笑)」

《フイリマングース》の剥製や、渡瀬がインドから送ったはがき

「当時は、ネズミとかハブとかの被害が大変で、渡瀬先生もなんとかしたかったんですよね。それで、両方とも一気にやっつける方法として、こいつ(マングース)がいいと思ってやったんですけど……。とはいえ戦前は『けっこううまくいっているんじゃない?』と評価している論文が多いです。評価が変わって『実はマングースって、やべぇんじゃねぇの?』ってなったのは、戦後のことなんですよね」

いずれにしても、マングースの件で、渡瀬庄三郎の評価がイマイチなのは、残念なことだと、川田さんは嘆息する。

渡瀬庄三郎が、インドから持ち帰ったマングースの剥製標本

さて、渡瀬が中心となって1929年に設立された日本哺乳動物学会だが、同年に渡瀬が亡くなったこともあり、短命に終わってしまう。その後もたびたび、研究グループを復活させる動きがあるものの、なかなかうまくいかなかったそう。さらに第二次世界大戦が勃発。

「学会どころじゃねえ、研究どころじゃねえ、それより科博の標本を軽井沢へ疎開させるぞ! みたいな、とんでもない時代がやってきます。そして戦後を迎え、1946年には哺乳動物談話会が創立します。この時に立ち上がったのが、当時20代から30代の若手の研究者でした。その中心人物が、高島春雄さんです。実は僕は、高島さんを紹介したくて、この展示を作ったというところもあるんです(笑)」

高島春雄と、彼が選んだ世界三大珍獣

「科博では、世界三大珍獣を選んだ人ということで、たびたび展示では紹介されていますが、実はサソリなどの研究者です。ところが、とっても動物が好きで、いっぱい動物に関する著作を書いています。動物園にも出入りしていて、戦前から、いっぱい講演をしていた人なんです」

三大珍獣の記載が見られる、高島春雄の著作「ぼくらの動物学ノート」と「珍しい動物たち わたしの空想動物園」

高島が中心になって集めたメンバーが、上野動物園の園長も務めた林寿郎や、ユメゴンドウの約80年ぶりの再発見で知られる山田到知などだった。

「林寿郎さんは本当に豪快な人で、アフリカへ猛獣狩りに行って、カバを連れてきたりとか……そういう逸話がたくさんあるんですよ。展示で紹介しているのは、林さんが書いた『雪男 ヒマラヤ動物記』です。猛獣狩りだけじゃなくて、雪男まで捕まえに行っちゃったんです。そのヒマラヤ雪男調査隊の隊長が、東京大学の医学部の解剖学教授の小川鼎三(ていぞう)さんです。だからこの頃は笑い話ではなく、本当に雪男がいると思って行ったんですよね。その時に採集したジャコウオジカの剥製が、なんと科博にありまして、ここに展示しております」

林寿郎著「雪男 ヒマラヤ動物記」
林寿郎のプロフィールと、ヒマラヤへ雪男を探しに行った時に採集したジャコウオジカの剥製標本

「もう1人が山田致知(むねさと)先生という、ヒマラヤ探偵の隊長だった小川鼎三先生の弟子です。小川先生は『鯨の話』という名著を残しましたが、当時のクジラ研究には欠かせない人物です。その弟子だった山田さんも、クジラやイルカの聴覚器の構造を、積極的に調べた人です」

山田致知の父は医者だったが、無類の動物好きでもあった。山田が中学生の頃には、親子の共著で動物関連の本を出版したほど。さらに動物好きの家系は続き、山田の息子の山田格(ただす)は、科博の名誉研究員なのだとか。

「山田格先生は、クジラの山田先生です。先生から家系の話を聞くと、とても興味深くて感動するんですけど、今回は先生から山田致知さんが当時使っていたカメラを貸してもらったので、展示しました」

当時、山田致知が使用したカメラ。ボディはLeica IIIa ANGOO、レンズはTelyt 20cm

そのほか展示では、哺乳動物談話会の設立に関わった直良信夫や花岡俊政、後に科博の動物部長を務める今泉吉典が、関連資料や標本とともに紹介されている。

超どレアな標本ばかりの、第2章「科博と哺乳類学」

第2章では、科博と哺乳類学との関係を示している。川田さんが「古い標本をできるだけ見せたい」というだけあり、ここでもプレミアムな標本が、目白押しだ。

「第2章では、古い標本をできるだけ見せたい」という川田さん

まず目に飛び込んでくるのが、アジアゾウの全身骨格の標本。これは、1888年にタイの国王から贈られ、上野動物園で飼育されていた個体。そして後ろを振り返ると、ディスプレイの中にあるのはブタの液浸(えきしん)標本。

「(ブタの液浸標本は)ちょっと気持ち悪いと感じる方もいらっしゃるかも。苦手な方は、ご注意した方がよろしいかもしれません。そして、これらは全部、明治時代のコレクションでございます」

アジアゾウの全身骨格
ブタの標本

明治時代のコレクションということは、帝室博物館(現在の東京国立博物館)の頃の資料ということ。今では、ほぼ入手不可能な標本も多く含まれているという。例えば、カモノハシの全身骨格。川田さんによれば、「カモノハシの剥製は、当時たくさん輸入されて現存していますが、日本で全身の骨があるのは、これだけじゃないかなぁという気がしています」。

貴重なカモノハシの全身骨格

さらにオオフクロネコとかミミナガバンディクートなど、オーストラリアの固有種が続く。

「明治時代は、石川千代松さんという方が、帝室博物館の(動・植・鉱物標本を主とする)天産部長を務めていました。その時に、どんどん外国と標本交換をしていたんです。そうした様子が分かるのが、展示してある帝室博物館時代の台帳です。これを読んでみると、哺乳類については、今の展示より面白いかもしれないと思うくらいに、充実しているんですよね」

オオフクロネコの骨格標本
ミミナガバンディクートの骨格標本

また、当時の上野動物園は帝室博物館の付属施設だった。その帝室博物館の天産部長をやっていた石川は、動物園にたずさわっていたと推測できる。

「わりと有名な話ですが、石川さんがドイツの動物商からキリンを買わないかと言われたんですね。それで石川は、欲しいなぁ……キリンが欲しいなぁ……でも予算もないし飼育場所もないしなぁ……でも欲しかったから送ってもらった。それが今回展示されている(剥製標本の)キリンと、写真の中に写っている(首を伸ばした)キリンです」

キリンの剥製標本(オスの)

1907年に、ドイツのハーゲンベック動物園から上野動物園に来たのが、オスのファンジと、メスのグレー。2頭のキリンは人気となり、上野動物園は当時の史上最高の入園者を記録するが、翌年には揃って亡くなってしまう。その後は、剥製となり帝室博物館に展示され、関東大震災後に科博へ移管された。

「そうした剥製になるまでの過程が、当時の少年雑誌(『少年世界』15巻2号)に記録されています。そうした興味深い展示もありますので、楽しんでいただきたいです。また最近の調査で、当時の詳細が書かれた文献を入手できたので、5月に出る論文にもまとめました。よろしければ合わせて読んでいただければと思います」(川田さん)

「少年世界」15巻2号

以上のような明治時代の資料や標本は、そのほとんどが帝室博物館のコレクションだ。なぜかと言えば、科博の前身の博物館は、1923年の関東大震災により、建築物ごとなくなるという被害に遭った。

そこで帝室博物館の天産部、つまり自然科学系の資料は、全て科博の前身の博物館に提供・譲渡されることになり、科博は新たな道を歩み始める。

「当時の科博には、専門の剥製師がいました。そのため剥製標本については、どんどん追加されていった記録があります。この(イヌの)ボルゾイの剥製も、そうした剥製師が作りました。それとは別に、蜂須賀正氏さんという鳥類学者が寄贈してくれたものも残っています。その中の1つが、こちらのネコのミイラです。当館の人類研究部の先生に調べてもらったところ、エジプトで作られた正真正銘のミイラとのことです」

またこの頃になると、学習用、学校で使用するために標本のようなものが、島津製作所などで盛んに作られたという。

ボルゾイの剥製標本など
ネコのミイラや学習用の標本など
ネコのミイラ

「標本のコレクション数を見ると、帝室博物館から譲渡されたコレクションは10,000展弱でした。その後も、ぐぐぐっと伸びた様子はありません。そして、先程も少し紹介した今泉吉典先生が科博に入った1950年以降に、ドドドッと数が増えていきます。その後も増えていくのですが、2007年に僕が科博に来たのですが、ここから鋭角的に標本数が上がって行きます(笑)。ただ僕などは、今泉先生が多くの標本を集めていて素晴らしいなと思って、頑張っているようなものです。だから、やっぱり今泉先生はすごいです」

川田さんによれば、今泉先生のすごさは、コレクションを欧米方式で登録番号を管理することを始めたことだという。帝室博物館時代の台帳まで遡り、整理していった。そうしたことを積み重ねた結果、23くらいの新種を記載したのだ。その新種記載に用いた、いわば基準ともなるタイプ標本のいくつかが展示されている。

「イリオモテヤマネコのタイプ標本は、なかなか見られないと思います。企画展の途中で、骨格標本に変わりますので、今しか見られません。あと、クチバテングコウモリというのは今までに1匹しか見つかっていないという超ドレアなコウモリで、そのタイプ標本がございます。今泉先生の業績は、こうした標本として残されているんです」

イリオモテヤマネコのタイプ標本
クチバテングコウモリのタイプ標本

まだまだ続く、多様な標本がズラリ!

川田さんによれば、哺乳類の標本は、毛皮と骨格などを分けて作るという点で、他の両生類などとは異なるという。哺乳類は、主に3つの方法で標本が作られる。3つとは、本剥製と仮剥製、それにフラットスキンだ。

「まず本剥製は、博物館でよく見るもので、生きていた時の形状や姿勢が再現されたものです。ここでは、坂本式剥製という有名な手法を考案した、福本福治さんと、その息子の坂本喜一さんをご紹介しています。また、展示しているのは、当館の重要な剥製コレクションのヨシモトコレクションです。

常設展でも多くの本剥製が展示されている、ヨシモトコレクション

「本剥製は、いわば展示用ですが、我々研究者的に一番たくさん作って、たくさん触れるのは、仮剥製という研究用の剥製です。歴史的には、東京帝国大学の、日本人で2人目となる動物学教授の飯島魁先生が、作り方などを解説して、普及したものです」

今企画展でも多く展示されている仮剥製。ここでは、親子の仮剥製などが見られる。

「親子で見ると何がわかるのかとか、大型の動物でも仮剥製にするとこんな感じになるのかとか、模様が色々とあるんだなとか、見ていると面白いかなと。ほとんど趣味の展示になってきていますけど(笑)」

ツチブタの仮剥製

「これなんてすごいでしょ。このネズミは、クモネズミって言うんですけど、世界最大のネズミの一つです。赤ちゃんと、ちょっと育った時と、さらに成長すると、毛皮の色がこんなに変わるんですよ。こうした成長に伴う毛色の変化だったり、あるいはグループ間での毛色の変異などを研究していくためには、こうした仮剥製が不可欠な標本になると思います」

ウスイロホソオクモネズミの仮剥製

「こちらのフクロモモンガは、雑誌記事に書いたものです(「標本バカ」に所収)。相模原市でネコが捕まえたという、オーストラリアの有袋類です。オーストラリアから飛んできちゃった……もちろん嘘ですよ(笑)」

相模原市のネコが捕らえたフクロモモンガの仮剥製

「仮剥製は、収納しやすいように手足を伸ばした状態で、平べったく作るのが一般的です。でも、これでもうちのタンスには、かさばって無理だわっていう方には、こちらのフラットスキンみたいな、平らに作るという方法もあります。あるいは鞣し(なめし)革にして、折り畳んで収納する場合もあります」

イノシシのフラットスキン
鞣し革にした状態は、手に触れられるよう展示されている

さらに、前述のゾウを含め、骨格標本の展示も充実している。第3章で展示されているのは、コウモリやモグラなどの小型動物。

「骨が繋がっている展示用とバラバラになっているものとがあります。全身骨格は、このコウモリくらいの大きさであれば、慣れると1週間くらいで作れるようになります。また、頭と体の骨とを別個に残したり、あるいはバラバラにして残すことも、よく行なわれています」

インドオオコウモリの全身骨格
原猿類の一種、ショウガラゴの全身骨格
コウベモグラの全身骨格
タイリクモモンガ(別名:エゾモモンガ)の全身骨格

頭骨標本としては、1cm四方にも満たないキティブタバナコウモリなどが展示されている。息を吹きかけたら、飛んでいってしまいそうなほど小さい。

「こんなに小さいのに、脳から超音波音声(パルス)を出して反響音(エコー)、受容して、空間把握をしているんですよ。とんでもない能力でございます」

キティブタバナコウモリの頭骨

さらに液に浸けて標本にする、液浸(えきしん)標本。

「こういうのは古い時代からやられていて、シーボルトはインドネシアで一般的なお酒を買ってきて来日したと言います。これは飲むために買ってきたのではなく、日本で液浸標本を作るために買ってきたと伝えられています。

ホルマリンなども役に立つことがありますが、展示されているのは、アルコール漬けの標本です。けれども、ホルマリンに浸けてからアルコールで保存するという手法についても説明してあります」

液浸標本の展示

「展示物は、棚の下2段にある3点だけなんです。でも、フリースペースを作るから、何でも置いていいよって言われて持ってきたのが、一番上の液浸標本です。その一番上のものが実はすごいレアなものがいっぱいあるので、興味があったら教えますので、聞いてください」

実はレアな標本ばかりという、棚の一番上の液浸標本

第3章の壁面いっぱいに積まれた標本……実は……

企画展の最後、第3章では「哺乳類学の現在とこれから」とし、まずは哺乳類の現状を解説している。日本の哺乳類学の進展は著しく、1900年代初頭に、海外の研究者によって40種程度に分類されていた日本の陸生哺乳類は、現在では約110種にまで増加したという。

「科博の研究者も頑張っていて、山田格(ただす)先生が新種記載したツノシマクジラや、山田先生や田島木綿子(ゆうこ)先生などのグループが記載したクルツチクジラ、それに僕が記載したヒメドウナガモグラとヤマジモグラなど、2000年以降に記載したもので4種あります」

川田さんは、今では、人間が他の哺乳類とどう付き合っていくのか、哺乳類の保護や保全が時代のテーマになってきていると語る。

「動物をどう守るかと同時に、動物の被害をどうするかというジレンマと戦ってきているわけです。そこで、ここに展示したのは、2006年と2007年に駆除されたニホンカモシカの頭骨標本です。全部で約1,450点あります。これだけの個体が駆除されているんだよ、ということです」

ニホンカモシカの頭骨標本が収められたケースの上には、交通事故で死亡したクロウサギの毛皮が展示されている。2021年に科博が受け入れた、交通事故死体103件のうち、毛皮を残したのは38件で、その全てが並んでいる。

壁際に並ぶ、ケースに収められた膨大な数のニホンカモシカの頭骨と、クロウサギの毛皮

「クロウサギは、世界でも奄美大島と徳之島にしか生息しない、天然記念物であり、環境省が国内希少野生動物に指定している種です。そういう貴重な生き物というのが、これだけ死んでいるということです。

どうするのかの答えはまだないですね。ただし、こうした問題に取り組むために、日々哺乳類の研究が進められていというのを、ここでお示しいたしました。標本を残すという活動が、問題の解決にどうつながっていくのかというところまで見据えて、我々はこの収集活動をやっています。というのも、これから50年や100年が経ったら、生き物たちがどうなっているかを考えると、今こういう標本を作っておくことで、未来に貢献できるんじゃないかと思っています。また、そうした気持ちを持って我々は、今ある標本を大切にし、次の世代に継承していこうとしています。

最後のメッセージとしては、(川口さん自身をかたどったパネルを指差しながら)『世界一多くの哺乳類標本を作った男に、おれはなる!』ということで、本日はありがとうございました(笑)」

川口さんと、同氏をかたどったパネル

今回の企画展をぐるっと巡った後には、もう一度、企画展を入ったところにある正面パネルをよく見てほしい。面白いものが見えるはずだ。

入口正面のパネルの、ピンク矢印の先にある穴を覗いてみてほしい