最終回 あのとき写らなかったストーリー
あたりは薄暗くなっていく反面、変な明るさがあった。私は夕焼けの始まる気配を感じ、住宅地より続く坂の途中で立ち止まった。間もなく予感は的中し、頭上の空が燃え始めた。「向こうの空」ではない。私の真上で、赤やピンク、橙色に染まった雲が大きくうねり、刻一刻と形を変えている。
「竜みたい」
私はたまたま持ち合わせていたカメラを慌てて構えると、「竜の腹」に向け3、4回のシャッターを切った。
後日カラーネガから仕上がったプリントは、見たままの夕焼けを再現していた。写真はしばしば実物以上にきれいに写すということを知っていた私は、この日の写真を人に見せるごとに「本当にこんな空をしていたんだよ!」と訴えた。
そんな一件があったのは十余年前。その後私は会社に勤めだし、都心の狭い空の下、コンクリ建築の一室で一日の大半を過ごすようになった。遠くのビルのミラーガラスが西日に輝くのを窓越しに眺めるのがせいぜいで、郊外の広い空の下に戻ってくるころには、頭上はもう、星空だった。
後に私は、会社を辞めた。空いっぱいの夕焼けを見上げることのできない生活は自分の人生にとって損失かもしれないという思いが、一つの契機となっていた。職場の机の引き出しには、いつも「赤い竜」の写真を忍ばせていた。
シャッターを切った直後は、写真を見ても被写体を狙い通りに写せたかどうかばかりに目が行きがちだ。だが、時間を置いてからじっくり眺めてみると、自分にとって大事なことを写真が思い出させてくれることがある。
「撮るのはほとんど子どもの写真」と言うお母さん。彼女は十年後に写真を見返して、子どものことばかりを思っていた日々を思い出すことだろう。小物やお菓子の撮影に夢中になっている女性たち。彼女たちは、優しさや可愛らしさへの憧れを写しているのかもしれない。そして私は、河原や森で撮った数多の写真に道草ばかりしている自分を見て苦笑し、そんな時間的なゆとりが私にとっていかにかけがえのないものであるかを、夕焼けの写真から教わった。
たとえカメラ操作に苦戦した不器用な写真であっても、撮影者の被写体に対する情熱がひしひしと伝わってくることがある。むしろ、狙い通りに写らなかったからこそ、撮影時には意図しなかった別のストーリーが時を経て立ち上がってくることだってある。
写真には、こうした「何か」を写し込む力がある。
その「何か」に気がついたときに、いつも思うのだ。
つくづく、写真は面白い。