■ 何も起こらなかった10年
そうか、もう10年たったのか。でも、それほど、深い感慨を覚えるわけじゃない。ぼく自身、フリーランスのライターとして、Impress
Watch創刊当時の10年前時点で、すでに10年以上のキャリアがあったし、パソコンを使い始めてからも10年がたっていた。何よりも、ぼくにとっては、パソコン通信サービスというインフラを可能にした1985年の電気通信事業法の改正が大きな転機であり、10年前、Impress
Watch創刊のタイミングは、ようやく世の中が追いついてきたのだなという経過点のひとつにすぎなかったように思う。
そうはいっても、10年という歳月は決して短くない。Windows 95の登場が、PCの普及に大きな貢献を果たしたことは鮮烈な印象として覚えているし、携帯電話はiモードの登場以降、インターネットにアクセスするための端末として、重要な選択肢となった。
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iTunes
7.0.2 |
ただ、ぼくの懸念は、この10年間、めまぐるしく進展してきたように見えるPCシーンにおいて、Windows 95登場のような画期的な出来事が、実はないに等しかった点にある。PCでできることは、この10年間に、すごく増えたかもしれない。1,000万画素を超えるデジカメ写真をラクに扱ったり、テレビ番組を録画して編集したり、CDから数万曲の楽曲を吸い上げて収納できるようになるなど、10年前には考えられなかった。無理だとあきらめていた。
でも、考えられはしなかったけれど、そういう時代の到来を想像はしていたし、実際に、テクノロジーが追いついて、それがかなった。20年前、ぼくは、パソコン通信サービスを楽しみながら、月に数万円の電話料金をNTTに貢ぎつつ、マス、パーソナルを問わず、コミュニケーションのほとんどは、PCですべてこなせるようになると思っていた。予想は大きくは違わなかったが、10年前のImpress
Watch創刊を経て、あれから20年を経過した今、未だにテレビは電波にたよっているし、あいかわらず、新聞は郵便受けに配達される。夕方、郵便受けを開けると、ダイレクトメールが山のようになっている。これは20年前、10年前と何ら違いはない。
■ 10年前、20年前に想定外の現実
ぼくの住んでいるマンションに、ケーブルテレビが導入されたのは昨年だ。ケーブルテレビの導入によって、屋上のアンテナから分配されていた東京タワーからの電波は停止され、各戸にはケーブルテレビ事業者の再送信波が分配されるようになった。それによって、明らかにテレビの画質が落ちてしまった。ケーブルテレビ事業者は、東京タワーからの電波を都内のどこかでアンテナを使って受信し、それを再送信しているにすぎない。仕方がないので、録画用の機器には、量販店で買ってきた室内アンテナをつなぎ、東京タワーからの電波を直接受信している。そっちの方が電波の状態はいいからだ。何が悲しくて、こんなことをしなければならないのか。
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すでに、このケーブルテレビ会社では、地デジのパススルー再送信が始まっているので、地デジの電波であれば、画質の劣化はないのだろうけど、すぐにすたれるアナログ機とはいえ、以前より、画質が落ちるというのには、どうにも釈然としないものがある。ケーブルテレビ事業者にとっては、どうせあと数年で停波するアナログ波に、新たな投資をして画質を改善するといった姿勢もなさそうだ。営利企業としては、それも仕方があるまい。
輝かしい未来を想像していた20年前から実際に20年がたち、その時代を生きている今、まさか、放送が電波をたよっているとは、それこそ想定外の話だ。あのころは、広帯域の通信回線一本で、放送から電話、郵便にいたるまで、すべてをカバーしていると思いこんでいたのだから、おめでたい話である。
テクノロジーは十分に進化したし、進化を止めてもいない。だから、今、感じている不満の多くは、明日からでもできることが、テクノロジーのせいではなく、他の理由でできない点にある。その制限の多くは法律など、行政的なものだが、豊かな暮らしが、法律でスポイルされてしまっているのは悲しい。
もちろん行政的には、いろいろな理由があって、もし、なし崩しにいろんなことを許してしまうと、寡占が起こるなど、「富」の破綻が発生し、結果的に、人々の暮らしに悪影響を与える可能性があるからなのだろう。あらかじめそれを回避するためなのだから、多少のガマンはしなさいということか。
■ 自由であることは不自由でもある
新聞にもテレビにも、そして、雑誌など、いわゆる出版物にもいろいろな規制がある。テレビの場合は、自主規制の放送基準でCMの量が決まっている。たとえば、30分以上の番組では、10%を超えないようにとされている。1時間ごとに編成せずに、54分番組と6分番組にわけるのは、60分なら6分しかCMを流せないが、54分と6分に分ければ、5.4分と1分で、それ以上のCMを流せるからだ。5分番組は1分、10分番組は2分の限度を超えないことにするという放送基準を逆手にとっているというわけだ。
雑誌の場合は、以前に、興味深い話を聞いたことがある。広告が増えすぎた結果、廉価な郵送料ですむ第三種郵便で送付できなくなってしまったというのだ。同様に広告が増えすぎて、印刷のコストがかさんでしまい、広告をとればとるだけ赤字がかさむになるという笑えない話もある。
Impress Watchに代表されるインターネットにおけるニュースサイトは、まだ、こうした自主規制や法的規制での束縛感は希薄で、やりようによっては、何でもできそうな雰囲気だ。どちらかといえば、企業そのもののコンプライアンスに委ねられているように思う。創刊当時は、ページビューが増えることで、帯域の増強が必要になり、そのコストが馬鹿にならないという話も聞いたことがあるが、今はどうなのだろうか。いずれしても、規制の緩さをいいことに、好き勝手をやりすぎては、自分で自分の首を絞めるようなものだ。
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Impress
Watch トップページ |
自由であることは、本当は、とても怖いことである。Impress Watchに、個人を特定できるような、特に未成年の一般市民の写真がある時期から掲載されなくなったのはどうしてなのかを考えてみよう。たとえ、子どもを対象にしたパソコン組み立てイベントの写真であってもそうなのだ。たぶん、テレビや新聞が同じネタを取り上げたら、これみよがしに、子どもの喜ぶ姿を掲載するだろう。そこが、消えていくメディアと、誰もが10年前にさかのぼってバックナンバーを手軽にたどれるメディアの違いだ。注意深く観察すると、Watchは、厳しすぎるくらいに自らを規制していることがわかる。
これからの10年で、Impress Watchのようなサイトがどのような変貌を遂げるのかには、とても興味がある。インターネットの一般化以前から存在したマスメディアには、見習うことも多いが、反面教師的な部分もある。似て非なるのもという考え方もありだろう。マスコミとして君臨するのか、はたまた、特異なメディアとして独自の道を突き進むのか。そこへの興味はつきない。
( 山田祥平 ) |
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